静けさに息が詰まりそうなキッチンで、昇吾は紗希をじっと見つめていた。
彼女のまばたきや呼吸など、ほんのちょっとの動きから感情を読み取ろうと必死だった。
「君が察していた通り、俺はもう、どうやら、君の心を読み取ることができないらしい。だから、教えてほしいんだ。今、何を考えているのか」
昇吾の問いかけは真剣そのものだ。彼が自分に対し本心を伝えてほしいと望んでいる、そう分かっていても、紗希は言葉が喉につっかえて何も言えなかった。
「……質問を変えてみるよ。紗希の、前世を教えてほしい」
「えっと、それは、つまり」
「死に戻る前の事だ。真琴とどんなことがあったんだ?」
それなら、話せる気がした。
「ええと……私は、自分は、真琴さんと昇吾さんの仲を切り裂こうと幾度となく挑戦し、そして……」
紗希は夢中になって話した。以前も語ったことがあるような気がしたが、最初から最後まで必死に話し続けた。
昇吾と真琴の関係が深まっていくのを見て居られず、どうにかしようと行動し続けた自分について、ただひたすらに。
話がやっと落ち着く頃になって、紗希は自分の気持ちも同じように落ち着き始めたのを感じていた。春雨スープはすっかり冷めきり、水分を吸った春雨が2倍くらいに膨れ上がっている。
「……それで。もし、前世通りなら、私は命を落とすの。令和5年の、5月10日。死に戻った日から5年後。それが、それが、今日なの! 今日なのよ!!」
悲鳴を上げた紗希の隣へ昇吾は駆け寄った。テーブルに足をぶつけないように後ろへ後ずさりさせて、柔らかなソファの方へと軽やかに運ぶ。
紗希の不安を、恐怖を、今になって昇吾は明確に理解した。同じように【死に戻り】を果たした母は、運命を変えずにいた結果、死を迎えている。そう知ってしまったことで、紗希は自分もまた命を落とすのではないかと、常に強烈な不安を抱えていたのだ。
そこに、昇吾の能力が失われるという出来事が重なった。紗希からすれば、運命がまた一つ、前世に重なろうとしているように思えたのかもしれない。
彼女の不安を根幹から取り除くにはどうすべきか考えながら、昇吾は何度も囁いた。
「大丈夫だ」
「紗希は、ここにいる」
「俺の腕の中にいる」
前世では一度もなかったことだ。そう思いださせるように繰り返し伝えると、少しずつ紗希の表情が明るさを取り戻し始めた。
「紗希、見てくれ。指輪があるだろう?」
「……ええ」
「これは前世にあった?」
じっと左手の薬指に輝く真珠の指輪を見つめてから「なかったわ」と吐息交じりの声で紗希は呟いた。そうだ、確かに存在しなかった。
ゆっくりとした呼吸を繰り返しながら、紗希は昇吾に視線を合わせる。
「ごめん、紗希。もっと丁寧に、はっきりと、説明すればよかった。茶化すべきじゃなかった」
額を重ねてくる昇吾に、紗希は首を小さく横に振る。
「そんなことない。私の方こそ……ごめんなさい」
2人はお互いの目を見つめあう。彼らは、どんなに近しい人でも、分からないこと、知らないことはある。そう改めて理解していた。
「紗希。どんなことが一番不安?」
死んでしまうことだろうか。昇吾はそう考えながら問いかける。
「貴方の傍から、いなくなってしまうこと。昇吾さんと、離れ離れになりたくないの、もう二度と……」
だから紗希がそうすすり泣きながら言った時。彼はたまらない気持ちになりながら、強くその体を抱きしめていた。
紗希の鼓動が聞こえてくる。彼女は間違いなく、ここにいる。
「俺が起こさせない、そう約束したいよ。だけど、俺だけじゃ、きっとできない」
昇吾は紗希の手を握りしめた。手を離さずにいることは、簡単だ。だが手を握りしめ
合うことは、相手がいなければ成り立たない。
そんな思いを抱きながら、ただひたすらに昇吾は紗希の目を見つめる。
「だから、2人で目指そう。どちらも欠けない、どちらも隣にいる日を……」
紗希は昇吾の腕に抱かれて、そのまま強く頷いた。
時計の針が進んでいく。1秒、2秒、3秒……。
静かな室内で、ふっ、と紗希は目を覚ました。あっけに取られて、自分を抱きしめる昇吾に視線をやる。
「しょ、しょうご、さん……」
焦りながら声をかけると、昇吾もまた驚いた様子で目を開けた。2人して時計を見ると、時刻は5月11日の午前6時を示している。
まるでそれまでの出来事が悪い夢だったかのように、世界は晴れやかな5月らしい朝を迎えていた。
信じられなくて、何度も2人はお互いを見つめあう。それからテレビをつけ、ネットを付け、ニュース番組が正確に5月11日のニュースを伝えていることを確認しあった。
本当に今、自分たちは、5月11日を生きている。
2人は自分たちが、運命を乗り越えたことを直感していた。
「紗希、紗希……!」
「わた、わたし、ここにいるんですよね? 本当に、私……」
込みあがる涙を抑えきれず、紗希は泣き叫んだ。昇吾もそんな紗希の声を聞きながら、自分の腕に愛する人を抱く幸いを、ただひたすらに噛み締め続けたのだった。