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「貴方のそういう誠実な所が好きで、同時に大嫌いですわ」


 山桜桃ゆすらがぽろぽろと涙を零す。

 紫雲英げんげは懐紙を差し出した。


「こういう時は袖で涙を拭うのが殿方の役目でしてよ」

生憎あいにく、そういう手管てくだは持ち合わせていないのだ」


「本当に朴念仁ですわ、貴方」


 懐紙を受け取って涙を拭いて。山桜桃は紫雲英を真っ直ぐに見据えた。


「でも、そういう朴念仁が好きなのですから、仕方ありませんわね」


 どこか吹っ切れたように山桜桃は顎を上げる。


「主上のお望みです。私たち二人で叶えましょう」

「それはつまり」


「共に、主上を支えましょう。けれど妻問つまどいの手順は踏んでくださいまし。和歌うたくらいは私だけの為に詠んでくださいな」


 紫雲英は真面目に頷いた。


「そうしよう」


 真剣な表情に、山桜桃は嬉しいような悲しいような複雑な気持ちで微笑む。


「これから色々大変ですわよ。まずは父を説得しなくてはなりませんし」

「別当どのより大納言どのではないのか?」


「あら、伯父上の説得は簡単です」

「そうか。そうだな」


 紫雲英は立ち上がりかけてまた座った。


「どうなさいました?」

「山桜桃」


「はい」

「私は今は貴方を愛してはいないが、愛するように努めようと思っている。妻として大切にする。それだけは伝えて置く」


 山桜桃は深々と溜息を吐いて眉間を押さえた。


「そういう台詞は言わない方が良いですわよ。却って気持ちを逆撫でします」

「……そうか。すまない」


「いいえ。それも貴方の誠実さゆえと存じておりますから、許します」

「ありがとう」


 紫雲英は今度こそ立ち上がり御簾を上げて出て行った。

 と思ったらすぐに戻って来る。


「伝え忘れた。恋や愛ではないが、私はちゃんと貴方を好きだ。そうでなければ妻に迎えようとは言わなかった」


 ではな、とそれだけ言い置いて、紫雲英は今度こそ去って行く。

 残された山桜桃はひどく複雑な表情で座り込んでいた。


「……本当に。どうしようもない男性ひとですわね」






 清涼殿せいりょうでん

 女房達も皆下がらせて。

 榠樝かりん夜御殿よるのおとど御帳台みちょうだいの中、ひとり膝を抱えて丸くなった。


 ひとりきり。誰も居ない。

 ならば泣いてもいいだろう。


 ほたほたと涙が頬を伝っていく。

 嬉しいのか悲しいのか、それとも悔しいのか。自分の気持ちが分からない。


 十年しかない。


 その間に虹霓国こうげいこくを盤石とせねばならない。

 五雲国ごうんこくとの同盟を強固にし、簡単に破棄できぬよう布石を打つ。

 攻めるにかたい国と成す。


 沿岸の防備を完璧に、光環国こうかんこくの技術を取り入れて、我がものとする。

 国内の基盤を確固たるものとする。六家の代替わり、六家以外の貴族の不満も取り除き。


 そして、そして次の王を生む。


 全部ひとりではできぬことだ。

 だが、誰か一人を選ぶこともできはしない。


 今の状況では。


 だがそれでも、手を差し伸べてくれる者はいる。

 誓いをくれる者たちがいる。


 紫雲英は支えると言ってくれた。

 紅雨は待つと言ってくれた。


 十年もあれば気が変わるかもしれない。

 それでも今、そう言ってくれたことは真実としてここにある。


 胸の奥に火が灯った。

 あたたかい。


 あたたかいからこそ、苦しくもある。


 さら、と衣擦れの音がする。

 御帳台の前、誰かがひざまずいた気配がした。


 榠樝は深く吐息する。この香りは間違いようもない。


頭弁とうのべん

「はい」


「呼んだ覚えはないぞ」

「はい。ご無礼申し上げます」


 とばりの隙間から様子を伺えば、笹百合ささゆりが小さく畏まっているのが見えた。


「どうした。紅雨に良い所を持って行かれて悔しかったのか」

「はい。悔しゅうございました」


 揶揄からかってやるつもりの台詞に真顔で返されて、榠樝は涙を引っ込めた。

 そう、この三年で笹百合もだいぶ変わった。


主上おかみ、いいえ、榠樝さま。私もお待ち申し上げて宜しいですね」


 いつでも控えめで己のことなど二の次、三の次であった男が。

 こんなにも榠樝を求めているとは。


 まったく、世の中というものはどう転ぶのかわからない。

 一手先すら見通せない。


「それは問い掛けではなく宣言ではないのか」

「はい」


 ちっとも悪びれず頷く笹百合に、呆れを通り越して笑ってしまった。


「ならば笹百合、そなたも存分に遣うぞ。良いのだな」

「望むところです」


 ああ、と榠樝は目を閉じた。

 ひとりではない。

 ならば、きっと。できることもあろう。






 その年の夏を前に菖蒲紫雲英あやめのげんげ黒鳶山桜桃くろとびのゆすらとの婚約が告げられた。


 朝廷はまた大いに揺れた。


 菖蒲家次期当主とその北の方に黒鳶家の姫が決まった。

 六家の二角、菖蒲と黒鳶が手を結んだのだ。


 そして同時に、近い将来の王配争いから菖蒲が手を引いたことになる。


「均衡を保ちたかったのでは無いのですか」


 関白、蘇芳深雪すおうのみゆきが渋い顔をしている。

 榠樝は平然としたものだ。


「紫雲英も山桜桃ももとより我が腹心。見た目ほど勢力は変わってはおらぬよ」

、変わりますことが肝要でございますれば」


 王配のくらべは表立っては白紙。

 だが水面下で丁々発止ちょうちょうはっしと遣り合っているとは聞く。


 主に蘇芳紅雨すおうのこうう縹笹百合はなだのささゆりである。

 藤黄茅花とうおうのつばなは少しばかり勢いに欠ける。何やら笹百合に深く釘を刺されたとかなんとかかんとか。そして今、北の大宰府に居るので中央の争いには加われぬ状況でもある。


「表で均衡を図るか」

月白つきしろ家を引き立てますか」


虎杖いたどりの位を上げる。或いは弟たちを引き上げる」

「もしくはその両方でも構わぬかと」


 深雪の言に榠樝は意外そうに眼を瞬いた。


「月白贔屓びいきが過ぎぬだろうか」


さきの当主凍星いてぼしが相談役として五雲国ごうんこくに渡っておりますが、当主虎杖は右近衛中将。当主の位としてはいささか低うございますな。正四位下にし、参議と致しましょうか。弟たちも相応に」


 榠樝は扇を閉じると口元に当てた。


 蘇芳は深雪が関白、中央で権勢を振るい、菖蒲と黒鳶が手を結び威勢を増した。

 藤黄は橘が中納言、南天が征討大将軍、茅花が大宰大弐で北方に勢力を持つ。

 縹は何だかんだと笹百合が出世頭としても目立っているし。


 六家の中で月白だけがひとつ出遅れている感はある。

 やはり月白を引き立てる必要はあるな、と榠樝は頷いた。


「月白は各々が控えめで真面目で。あやつら兄弟は目立とうとせぬから……」

「気性でございましょうな」


「本人らの力が発揮できる場所に置いてやってくれ」

はからせまする」


「うん。頼む」

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