うっかりしていた。
即位したのだから清涼殿に居るのが常なのだ。
どうしても女東宮であった頃の癖が抜けず、足は自然と飛香舎に向かってしまう。
改めていかなくては。
「何かあったのか」
ひょいと顔を出したなら、女房が慌てて榠樝を押し止めた。
「
「どうぞ夜御殿に!もしくは飛香舎に!」
「何が危険なのだ」
榠樝の言葉が終わらぬ内に大きい音が響いて。
榠樝は呆気に取られて固まって。
紅雨は
「主上、お尋ねしたき儀がございます!」
後ろから
掴み合いでもしていたのだろうか。
乱れた有り様に愕然とする榠樝に、笹百合は極力平静を保って言う。
「ご無礼申しました。すぐに下がらせます」
榠樝は目を瞬いて、けれど首を振った。
「いや、よい。聞こう」
昼御座にて居住まいを正し、紅雨と笹百合が改めて畏まった。
「畏れながら申し上げます。婿がねの
微かに震える紅雨の声に、榠樝は睫毛を伏せる。
「真実だ」
「王配を、暫くは決めぬというのも」
「その通りだ」
榠樝は静かに、冷たくも聞こえる声音で言った。
「紅雨、そなたらにも煩わしい思いをさせたな。すまぬ。だが、私は暫く婿を取らぬと決めた。それ
紅雨は勢いよく顔を上げた。泣きそうに歪んでいる。
「我らに至らぬ点がございましたでしょうか!何か、お気に障ることを致しましたでしょうか!どうか、
悲痛な叫びが胸に刺さる。
「そうではない」
そうではないのだ、紅雨。
婿がねの誰にも非は無い。
榠樝は少し息を吸った。
「面白い話ではないが、聞くか」
「は」
榠樝は溜め息を吐くと御簾を押し上げ、
そのまますとんと紅雨の前に座る。
「主上」
笹百合が
「そなたも聞いていくといい。婿がねだったのだからな」
過去形で語られる語に、紅雨も笹百合も痛みを抑えたような顔をする。
榠樝は泣きそうに笑った。
「さて、私が暫く王配を迎えぬといった理由だが、幾つもある。まずは我が
ひとつ、と指を立てて榠樝は言った。
「
「傾きが定まっていない、つまりはどちらが優位かわからぬ状態ということですね」
「そうだ。危ういが都合が良い。だが、私が王配を迎えたらどうだ。その均衡は崩れる。そしてまた五雲国の王が私に求婚してこなくなった場合も、崩れるだろう」
紅雨がハッと目を
榠樝は
「わかったか。五雲国の王が私に求婚してくる、この状況を長く保ちたい。その間、五雲国は虹霓国に攻め入ることはないだろうからな。そして、五雲国の王が代替わりした場合もまずい。今の王が私の意を
榠樝は精一杯の虚勢と
「私はこの状況をどうしても維持せねばならぬ。手玉に取らねばならぬ。それ故に、そなたたちから一人を選ぶことは出来ぬ」
榠樝は
「
溜め息と共に、苦々しく吐き出す。
そこには一抹の寂しさも紛れていた。
「……いつまで」
紅雨が小さく呟いた。
「いつまで、それは掛かりましょうか」
いつまで。
思いもよらぬ問いかけに榠樝は目を瞬いた。
五雲国との同盟を確固たるものにし、沿岸に崩れぬ防備を敷き、国内を安定させる。
不確かであやふやな虹霓国に盤石の体制を築く。
その為に何年掛かるだろう。
「わからぬ。が、私も王の役目として子を
十年経てば榠樝は二十六歳。
それ以上は、おそらく丈夫な子を生すことが難しくなる。
ああ、私が男であったなら。
何度考えたことだろう。
だが、現実は変わりはしない。
榠樝は女だ。そして王だ。
次代へ血を繋ぐことを考えなくてはならない。
ぎりぎりの
「お待ち致します」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
榠樝はきょとんと紅雨を見る。
熱の籠ったひたむきな視線が榠樝を貫いた。
「主上が思い描かれる国を作ることに、私蘇芳紅雨は尽力致します。ここに誓います。そして、その暁にはどうぞ改めて主上の婿がねの一人にお加えください」
力強く、胸を打つその言葉に。
榠樝は思わず目が潤むのを感じた。
「……良かろう。その誓い、覚えて置く。蘇芳紅雨よ、精々扱き使ってやる
鼻の奥がツンと痛い。
まずいな。泣きそうだ。
「では、そういうことだ。下がれ」
榠樝は敢えてぞんざいに袖を振ってみせた。
想定外。そういう表情をしている。
山桜桃は溜め息を吐いた。
「思いもよらぬことだという
紫雲英は複雑な表情をどうにかこうにか取り
「……うん。思いもよらぬことだった」
「本当に、全く、ちらとも気付いていらっしゃらなかったでしょう」
「……」
気まずげな紫雲英に山桜桃は肩を竦める。
「気付かれぬようにしておりました。
「勝った負けたの話では無くないか?」
惚れたこちらが負けなのだ。
その辺りでくらい、一つは勝ちを取って置きたい。
「私、貴方が好きですわ。ですが、貴方は王配になるべき方と思っております」
「私は主上直々に、王配には迎えぬと言われたぞ」
「現状維持をお望みだからです。でなければ貴方が一番相応しい」
そうかもしれない。
「そうかもしれないと思いましたでしょう」
「よくわかるな」
「貴方のことならわかります。そして主上のことも」
時が経てば。
きっと榠樝は紫雲英を恋しく思うだろう。
それは山桜桃の予感であり希望でもあった。
大好きな二人が手を取り合って、寄り添って、国を導いて行く。
それを山桜桃は女房として支えるのだ。
素晴らしい未来予想図。
「だが、主上は私と貴方とで背後を盤石なものとして支えてほしいと言った。私はそれを叶えたい」
山桜桃は眉を寄せる。
「榠樝さまを
「構わない。それが主上の望みなら、何を
「私を愛してはいらっしゃらないのに、榠樝さまの為に、私を妻にしたいと
「そうだ」
酷い台詞だな、と紫雲英は思う。
「私は貴方を愛してはいない。だが、貴方を妻に迎えたい。共に榠樝さまを支える力になってもらえないだろうか」
山桜桃が泣きそうに顔を歪めた。