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第39話

 ある一室に通されたアオは、使用人から適当な服を貰った。スイの着ている服を程上等なものでないが、着るには十分なものだ。


 十分だと言っても、前の世界で着ていた物にはやや劣るし、元の世界で着ている――前の世界の言い方では漢服と言っていたか、その漢服に比べると着心地や機能性からして圧倒的に劣るが、それと比べるのは酷だろう。


「私はどうすれば?」


 とりあえず服を着たが、アオの扱いはどうなるのだろう。


 使用人として置かれるのかと思ったが、服装が使用人のそれとは違うし、仮に使用人として置かれても、アオがここにいられるのは三日間のみだ。


「後ほど、王子様がいらっしゃると思います」

「そうですか」


 それまで待てということだろう。


 アオとしてこの場にいるのだ。


 あの男を殺すために、今は大人しく、過剰なほど慎重に、じっくり時間をかけなければならない。


 普段の碧であるのなら、翠に手を出そうとしている奴にはめっぽう強く、今この瞬間にも王子の下へ行き、碧しか使えない仙術でぶっ飛ばしていただろう。


 この世界では身体能力はただの少女のそれになっているアオにはできないことだ。


 しばらく待つと、部屋の扉が開かれ、スイを連れた王子がやって来た。


 スイも来たということは落ち着きを取り戻したのだろう。


 部屋は流石城というべきか、宿屋のようなベッドと机と椅子だけ――ということはなく、向かい合って座れる大きさのソファとテーブルがある。


 恐らく、王子がここへ来ることを見越して、それ用の部屋に案内したのだろう。


 使用人を退出させた後、アオの前に、スイと王子が並んで座る。


 はらわたが煮えくり返りそうになりながら、アオはなにを話すべきか考える。言葉を発せないスイだからなにも聞かれずに今まで過ごしていたのだろうが、言葉を発することのできるアオが来たのだ。それに、姉妹ということを言った時点で、どこから来たのか、そういったことは聞かれるだろうと予想する。


 その答えに、海から来た、と答えるべきか、流されて来たと答えるべきか。服など着ずにやって来たのだから、流されたは無理があるかと考え直す。

それなら正直に海から来たと答えるべきだ。そして、人魚だということも、魔法使いに薬を貰い、魚の尻尾を人間の脚にしたということも。


 スイは知らないだろうが、昔おばあさまが言っていた。地上の人間は、自分達人魚の、魚の尻尾は人間には醜く見えるということを。もしその通りなら、気味悪がった王子がスイを突き放す可能性が生まれる。そうなれば、いらぬことを話したアオに対して、スイは怒るのではないか、そういった期待も込めて。


「君は――」


 そう言いかけた王子だったが、頭を振って言い直す。


「君達はどこから来たんだい?」


 アオとスイ、二人に目を向ける。


 王子の予想通りの問いかけに、アオはイラっとしながら、答える。


「海から来ました」


 言うと同時にスイの表情を窺うと、僅かに緊張が走ったのが見て取れた。


 もしかすると、スイも知っているのかもしれない。


 王子に目を向けると、なにがおかしいのか、口元に手を当てていた。この様子だと、アオの言っていることを信じていないのだろうか。


 アオの視線に気づいた王子が笑いながら言う。


「だから君たちは揃って服を着ていなかったんだね」


(は? なにコイツ。気持ち悪)

「どういう意味ですか?」


 どうでもいいことだが、人は一定のイライラを超えると、逆に笑顔になれるんだと気づく。


「お前には一度話した話だよ」


 王子がスイにそう言ってアオの方を向く。


(お前……?)


 アオが王子に対する殺意を募らせていると、王子が聞いていないのに語りだす。


 それは、以前王子がスイに語ったことだった。


 王子が誕生日の日、船に乗って海へ出る。そこで嵐に見舞われて難破、流された王子は近くに修道院がある浜辺に流され、そこの修道女の娘に助けられ一目惚れ、しかし修道女は一生をそこで過ごすために共にいることができない。だから神様がその修道女の娘に似たスイを寄こした。


 唾を吐きかけたくなる王子の話、そんな話をのうのうと語る男のどこがいいのか。今すぐ殺したいと思いながら、黙って頷く。


「だからあの場所で服を着ずにいたとしても信じられたのだが、君が海から来たと言うんだ。それがおかしくてね」


(おかしいのはあんたの頭)


 勝手に話して勝手に納得している王子。なにに納得しているのかいまいちピンとこないアオは、さっき決めた通り全て話してしまおうと口を開く。


「私達、人魚なんですよ」

「人魚?」

「はい。人間のような脚が無く、魚の尻尾なんです。それに、海の中で生きているんですよ。あなたがなにを思っているのか知りませんが――」


 ここでアオの腕をスイは掴む。改めてスイの表情を見ると、もうやめてくれと言わんばかりの泣きそうな表情になっていた。事実を話して、王子に気味悪がられるのが嫌なのだろう。


「大丈夫だよ。話してくれ」


 そんなスイの手を取った王子が言う。気安くスイの手に触れるなと言いたいところだが今は助かる。


「あの嵐の日、あなたを助けたのは、あなたの隣に座る私の妹、スイなんですよ」


 この言葉は、スイが言いたくても言えなかったことだ。本来なら、代わりに言ってくれたアオに感謝をするところだろうが、それよりも、スイはおばあさまの言っていたことが本当ならどうしようと恐れていた。


 自分たちの正体を明かし、それで王子はなにを思うのだろうか。事実を知ったことにより、王子の気持ちはあの修道女から自分に向くのか。それとも、魚の尻尾を持っていたスイのことを気味悪がるだろうか。


 王子の顔を覗くと、王子は驚いたような、戸惑ったような顔で手を顎に当てている。


 少し考えた後、確かめるように言う。


「僕を助けてくれたのがあの修道女の娘ではなく――」


 そしてスイを見る。


 目が合うと王子は安心させるように微笑む。


「スイだと?」

「「――⁉」」


 王子に初めて名前を呼ばれた。さっきまでの恐れが噓のように吹き飛び、喜びと感謝だけがスイの心を満たす。叶うはずが無いと諦めかけていた。だけど僅かな希望に必死に縋っていた。今、その僅かな希望が自分のものになろうとしている。


 うっとりとした表情で王子を見るスイを見て、アオは激しい怒りが湧いてきた。


 なぜ自分ではなく、こんな男にそんな表情を見せるのか。

ここは翠の感情が創った世界だ。スイは翠ではないが、スイは翠の一部なのだ。スイを翠として見ることを止めることができた碧だが、流石にこの状況は我慢できるものでは無い。


 それでも必死に、イライラとは違うこの怒りという感情を制御しようと深呼吸をする。


 それは、はたから見れば、これから話す事実に対する緊張を落ち着けているように見えるだろう。


 立場が逆なら、既に『怒』の感情は解放できているのだろうと考えて、意識を逸らす。


 これはチャンスだ、王子の気持ちをスイに向けて、スイの喜びが一番な頃に王子を殺す。それなら、間違いなく、スイは怒るのではないか、と考える。


 あらゆる方法で怒りを抑えようとするアオ。


 その成果もあってか、言葉を発することができるぐらいまでには怒りを鎮めることができた。


「はい。スイはあなたに会いたがっていましたから」


 スイはあなたに恋をしていた、なんて言葉は、どんな精神状態であってもこの男に言えないが、大体は通じるだろう。


 王子に恋をしたスイが王子を助けた。助けてくれたのは修道女の娘だと思い込み、その娘に恋をした王子の気持はどうなるのか。これが事実だと信じれば、王子の気持ちはスイに向くだろう。


「なるほど。だが海から来たのなら、さっき言っていた魚の尻尾――という話は?」


 王子も馬鹿ではない。最初、おかしいと笑っていた時、まさかと気づいていた。あまりにも馬鹿げた仮説だったため、それは無いかと思っていたのだが、どうやら馬鹿げた仮説は間違っていなかったのかもしれない。


「薬を飲んで、人間の脚を手に入れました」

「信じられないな。そのような、魔法みたいな薬があるなんて」

「その魔法使いに作ってもらいました。対価を払って」

「対価……?」


 王子がまさかという風に眉根を寄せる。


「はい」


 アオは自らの閉じられた左目を指さす。


「私は左眼を対価に、そして――」


 驚いた目で自分を見るスイを見つめ返す。


「スイは舌を対価に」

「……そういうことか……⁉」


 これなら、今まで一言も言葉を発していないスイという証拠もある。王子は信じることしかできないはずだ。


「ちなみに、薬を飲んで人間の脚を手に入れると、歩くたびに剣で突き刺される程の痛みが走ります。スイも私も、それを常に我慢しています」


 その言葉は効果てきめんで、王子は明らかに狼狽する。


 王子に心配されたスイは心の底から嬉しそうに、大丈夫だと首を振っていた。


 やっと王子の気持ちが向き、それに心配されたのだ。心の底から喜んでいるのだろう。


「信じてくれますか?」


 最後にそう問いかけると、王子は考える素振り無く、首を縦に振った。

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