しばらく走ると、赤黒い棘が天に向かって伸びる剣山が見えた。棘の所々に人の形があり、その麓では、鬼が人間を剣山に向けて叩き下ろしたり投げたり、なんとも残酷な光景が広がる。
止まりたくなったが止まる訳にはいかない。仙人についていく。
剣山は一つではなく、いくつもある。大きい山から小さい山まで。そのどれからも人の叫び声が聞こえてくる。自らの犯してしまった罪の後悔、惨めな命乞い、憐れな泣き声、叫んだところでどうしようもない。
仙人に先導されてやって来たのは一番大きな剣山だ。
その隙間の奥深くに碧達は身を隠した。
『ここならば見つからないはずじゃ』
『結構いい感じかも』
暗いが暗いということは外からも見えにくいということだ。それに、この広さだと鬼は中まで入ってこられないはずだ。
『どうやって見つけたの?』
『空から見たんじゃよ』
『あー……その手があった! 他にはなにがあったの?』
『燃え盛る大地に血の池、罪人を煮込む大釜に鬼が金棒を振っておった場所もあったのう』
その光景を想像して、碧はげんなりした顔をする。どれも痛くて苦しくて辛そうだ。しかし今はそんなこととなどどうでもいい。碧は地獄に観光に来たのではない。翠を救いに来たのだ。
今話すことは翠がなぜ目を覚まさないのか。それに尽きる。
『なんで翠が目を覚まさないのか分かる?』
『魂じゃろう。やはりあれは小さすぎたんじゃ』
『小さい理由ってなに……?』
碧は膝の上に乗せた翠の頭を撫でる。温かく、呼吸はしている。ただ眠っているだけのようにも見える。
このまま起きてくれれば解決なのに、起きてくれない。もどかしい。ようやく救えたと思ったのに。
『魂が……足りんのじゃ……』
『意味が分からない』
『それはわしもじゃ。今の翠は魂が少なくとも八割は戻っておるじゃろう。残りはどうしたのか。地獄に来たということは地獄にあるはずなんじゃ。緋の時はあの場で魂の全てが揃ったんじゃが……』
『じゃあ探せば見つかるの?』
『それは分からん。じゃが、翠が目を覚まさないのなら、この地獄にあると信じて探すしかないのう』
可能性はこれしか無い。
『じゃあ、探しに行く!』
『そう言うじゃろうと思った。翠はわしが見ておく』
『ありがとう』
『危なくなったら合図を出すんじゃぞ』
『分かった。そっちもね、翠をお願い』
仙人に翠を見ていてもらうことになった碧は、剣山の中から姿を消して外に出る。
そもそも翠の魂があるのか分からないし、あったとしてもどのようにあるのかは分からない。それでも、一縷の望みにかけて、碧は地獄の中を駆ける。
温かい想いが流れ込む。
ここはどこだろう。目の前にいる愛おしい人。でもこの感情はなんだろう。
温かいはずなのに、胸が空くような、締め付けられる感覚。
大好きな人の焦った表情が。見たくないはずなのに、私の心は冷たくなっていく。
「なに? これ」
自分でもびっくりする程の冷たい声。
いや、そもそも自分にはこんな風に動く感情なんてあったのか。
知らない感情だけど、昔からある。でも私は感情の起伏が無い。だけど今はこんなにも動いている。
「私にも分からない! 急に連絡が来てっ――」
「そう言う割には、やり取りしていたようだけれど」
本気で焦ったような声を出す愛おしい人。それを糾弾する私。
なんで私はこんなことをあなたに言えるの?
知らない感情を持って、大切な人を傷つける言葉を吐く私。その私を見て戸惑う私。
どうしてこんなに感情が動くのか。この感情はなんなのか。
「私のため……ねえ」
「そ、そうなの! 翠のためで、でっでも、会う気なんて無いの! 私、騙されそうになったの!」
「あっそう」
騙されそうと言った彼女に冷たく返す私。
どうしてそんなに冷たい気持ちになれるのか分からない。自分が碧にそんなこと言えるはずないのに。
なら碧と話しているのは私の偽物なのか? 違う。これは私だ。
ならなぜこんなことを言えるのか。
この知らない感情はなんという感情なのか。
それからも碧とのやり取りは続いていく。知らない感情に傷つけられながら。それでも、この流れ込む温かい想いはなんなのか。
知らない感情と知らない想い。冷たくて温かい。
――翠には、その思いが碧のものだとはまだ気づけない。場面が次々と変わり、それに伴って翠自身が抱く感情も変わってしまう。ただそれでも、翠がずっと心の底で抱いている感情、流れ込んで来る温かな感情は変わらない。
碧を心の底から愛している。