電話の向こうからの声が、鼓膜に響く。ずっと昔から聞いていた声。好きな声。
何度も諦めるべきか考えた。そもそも、愛してしまったことが間違いだったのかと、唇を噛んだ。
一度振り払われた時に、そもそも全てが間違いだったんじゃないかとさえ思った。
忘れてしまえば、無かったことにしてしまえば、こんなにもどかしい思いをすることも、もう無いだろう。
それでも、脳裏に浮かぶ月の光を、忘れることは出来なかった。
思いがけず繋がった電話で、かつての友人の話をした。共通の友人の話であれば、ありがたいことに言葉はスムーズに流れ出る。俺はあまりコミュニケーションは得意ではないけれど、こうやって話が弾むのは、ひとえに相手がカズトだからだろう。話の内容が共通のもので、なおかつカズトは話し上手で聞き上手だ。相手が話しやすいようにコントロールしてくれるのは、本当にありがたい。
電話の向こうから、待ち望んでいた声が流れてくる。紡がれる声と懐かしい話に、思わず頬が緩んだ。
こんな他愛のない話をしたのは、何年振りだろうか。今なら、少しでも距離を縮められるだろうか。伝えても、許されるだろうか。勇気とも、無遠慮ともとれる考えが脳裏をよぎった。
「なあ、カズト」
『なんだよ』
軽くそう返してくれる明るい声に、学生時代を思い出す。先日、実際に顔を合わせた時の声色は、拒絶の色が強かったように思えた。勢いでかけた電話だったけれど、今ならば。何も考える間もなく、声を上げた。
「カズト、俺は——」
プツ、という音が聞こえて、慌ててスマホの画面を見る。そこには『通話終了』の文字が表れていた。
切られた、と咄嗟に考えて、そうじゃないかもしれないとも思い浮かんだ。カズトは今のように何も言わずに電話を切るようなことはしない、と思う。元気な性格はしているが、親御さんが教え込んだのだろう、挨拶などは欠かさないタイプだった。何より、直前まで声の調子は穏やかで、突然通話を切るような様子は見られなかった。
それとは別に、昔からカズトのスマホの扱いが雑だったのを思い出す。学校でも何度も充電を切らしてしまい、朔に『繋がらない電話に意味はない』と怒られていたのを覚えている。間違って通話終了ボタンを押したか、あるいは充電が切れたか。きっとそのあたりだろう。
それを踏まえたうえで、少し待って電話をかけ直すか頭を抱えたが、あえてそのままにすることにした。
あれだけ突然切れたのだ。万が一ではあるが、向こうでサクに電話を切られた可能性もある。そこに再度電話を掛け直せば、火に油を注ぎかねない。それが原因で再度着信拒否になどされてしまったら、今度こそ連絡がとれなくなる。それだけは避けたかった。
カズトになぜ惹かれたのか。全てを言語化することは難しい。
自分には出来ないことをする姿が、カッコよかった。
自分とは違う表情が、愛らしかった。
『それだけか』と問われると、勿論そんなことはなくて。つまりは、テレビドラマのCMのように陳腐だが——気づいたら惚れていた、という言葉が、一番しっくりくる気がした。
これからの未来を共に過ごすには、カズトしか居ないと思った。
想いを告げ、一度は距離をとられた。それでもと、もう一度だけとった手は、振り払われることはなくて。笑いかけてくれたことは、奇跡だと思った。
——しかし、その奇跡も長くは続かなかった。
朝日子との勝手に取り決められた婚約、それとほぼ同時に連絡を断ったカズト。完全に想定外の出来事から事態は急転し、もう二度とカズトに会えないことを覚悟した。日本で偶然再会した時も、実を言えば、もう一度隣に並べる未来までは都合がいいかもしれないと考えていたのだ。
大雨に降られた雨宿りで、カズトと会ったのは完全に偶然だった。
カズトの身を案じて家に誘ったが『触れない』という約束をしたのは、カズトの意思をちゃんと尊重したかったからだ。二人きりの空間なのだから、カズトに詰め寄ることもできるだろう。しかし、そうしたくなかった。かろうじて再び得られた繋がりを、ここで失うことだけは避けたかった。
その、はずだった。
「オレ——お前のこと、まだ、好きなんだなあ」
——瞬間、時間が止まったようにさえ感じた。
嬉しくて、悲しくて、申し訳なくて、でも、愛おしくて。そういった感情を全て押し込めたように笑うカズトの表情が、堪らなくいとおしくて、いじらしくて。
絶対に触れないと誓っていたその身体を、思わず引き寄せてしまっていた。
「わあっ」
驚くカズトの身体を、離すまいと掻き抱いた。約束を破ってしまったという気持ちと、カズトがまだ自分を好きでいてくれたという気持ちがぶつかって、溢れてしまって。
俺とカズトの体格差では、カズトは俺の肩口までですっぽりと収まってしまう。見えないけれど、カズトが驚いて身体を強張らせているのは感じることが出来る。それでも、離すことは出来なかった。
「……触らないって言ったくせに。うそつき」
「……」
耳元で、苦笑するカズトの声が聞こえる。
カズトが身体を強張らせたのは一瞬で、今度は俺の背中に控えめに手を回してきた。背中にカズトの手のひらを感じて、今度は俺が緊張するハメになる。びくりと身体を震わせた俺に、カズトはふふっと笑ってみせた。
「自分からやったくせに、俺がやるとびっくりするんだよな、お前」
「……仕方ないだろう」
「はいはい、分かったよ」
まるで兄のような——本当は俺の方が兄なのだけれど——態度で笑われてしまって、なんだか少し悔しくなる。俺の方が年上で、背も高くて、少しは余裕のある態度を見せなくてはならない立場なのに。カズトと居ると、どうしてもこうなってしまう。いっぱいいっぱいになってしまう俺を、カズトはいつも宥めてくれる。ちょっとずるいと思ってしまうのは秘密だ。
「カズト」
「なんだよ」
「俺は、お前のことが好きだ」
「うん」
「まだ、好きでいてもいいか」
「いいよ。俺も、好きだから」
年下を甘やかすような——でも、その声色の奥に、ほんの少しの緊張を滲ませて。そんなカズトの言葉に応えるように、俺はカズトの身体を抱きしめ直した。
手の届く位置にいる。
声が聞こえる。
言葉が交わせる。
こうして、体温を分け合える。
あのパーティで再会した時は、この形に戻れるなんて夢だと思っていた。再び自分を選んでくれたカズトの想いが堪らなく嬉しかった。
ふと、街中で再会した時のことを思い出す。あの時は、自分とカズトだけではなく、たしか——
「そういえば、カズト」
「ん?」
「……前に会った時。お前、海龍太郎という……」
「あ」
小さく声を上げて、カズトは少し身体をずらす。お互いの顔が見える状態で、カズトは視線を逸らした。
「言っ、て、あー……」
腕の中のカズトは気まずそうに視線をさ迷わせた。あー、うー、といったあまり言葉にならない呻き声を上げた後、視線を伏せてぽつりと呟いた。
「実は、別れて欲しいと言われまして……」
「え?」
その回答は予想外だった。確かにあの海という男と付き合ったままなら、カズトは俺の気持ちをこんな形で受け入れることはしないだろう。しかし、別れていた——それも相手側から言い出した形で——は、完全に想定外だ。目を丸くした俺の前で、カズトは苦笑しながら頬を掻いた。
「は、はは、ちょっと色々あって」
自分とカズトだって色々あった。カズトとあの海という男にだって、色々と事情はあるのだろう。悔しくも、俺は彼とカズトのことについてほぼ何も知らないのだから。
しかし、あの男は前に偶然出会った時、牽制までしてきた。あんな煽りまでする男が、そう簡単にカズトに別れを切り出すだろうか。
相当な事情があるのか、裏があるのか——というような気もするが、カズトが言いたがらない以上、俺が詮索することでもない。今は、カズトは誰とも付き合ってるわけじゃない。それが分かれば十分だ。
「……深くは、聞かないでおく」
「うん、そうしといて。オレもどう説明したらいいかわかんないや。……あ」
ピー、という軽い電子音が奥の部屋から響いてきた。カズトの服を入れていた乾燥機の音だ。
「服が乾いたらしい。取ってくる」
「うん」
ほんの少しだけ名残惜しいと思いながら、カズトの身体を離す。離れる体温を寂しいと思うだなんて、いつぶりだろうか。
乾燥機から取り出した服をカズトに手渡しながら、俺はポケットから車の鍵を取り出した。
「もう雨も止んでる。先に車を出してくるから、着替えておいてくれ」
「へ?」
「歩くのも大変だろう。家まで送っていく」
「あー、たすか……」
そこまで話した途端に、カズトの身体が硬直する。何か不都合があっただろうかと首を傾げると、若干の冷や汗をかきながらカズトが視線を逸らした。
「家、じゃなくて、近くでいい」
「何かあったのか」
「……サクにバレたら、やばい」
「……近くまでにしておく」
「お手数をおかけします……」
納得しかできない理由に深々と頷いて、俺は車へと急いだ。
年甲斐もなく、自分らしくもなく、浮足立ってしまうのは許してほしい。
これから考えることも、やるべきことも沢山あるけれど。
今だけは、子どものように喜んでもいいだろうか、と。そう思った。