「……で? つまり、オレに言うことは?」
「ええと……遅くなってごめん?」
「オレが聞いてんのはそこじゃねえよ!」
ダァン、とリビングのテーブルを思い切り叩かれる。テーブル側が壊れることはなかったけれど、叩きつけられた手のひらからは凄い音がしたので、やった本人もそれなりに痛いはずだ。しかし、怒りで我を忘れているのか、サクはそれどころじゃないという形相でオレの方を睨みつけた。
「帰りが!遅いと!思ったら!元カレの家で風呂った上に元カレに車で送られてきて、あまつさえヨリを戻したって?!」
「ま、まだ戻したわけじゃ」
「告白を断ったワケじゃないんなら、おんなじことだろこの優柔不断!」
全くもって正論である。何も反論できない。暴言のように聞こえるけれど、全て本当のことを言っているから暴言ではないという事案が生まれてしまっている。
ハルキに家から少し離れた場所まで車で送ってもらい、ハルキとサクが会うことなくオレが帰宅できたまでは良かった。しかし元々予定していた帰宅時間から、大雨のせいとはいえ大幅に遅れてしまったこともあり、何かを察したサクに「ちょっとそこ座れ」とリビングで向かい合わせに座って根掘り葉掘り聞かれてしまえばバレるのは早かった。嘘をつくのも嫌で、ぼかしながら答えていってしまった結果がこのざまである。
オレは結構『頑固』という評価を貰うことが多いんだけれど、今回の『優柔不断』も否定できない。頑固と優柔不断って両立するんだなあ、なんてぼんやりと思案した。
オレがまともに話を聞いていないと気づいているんだろう、サクは頭を抱えながら今後は自分自身にキレるように叫んだ。
「ああもうこうなるって分かってたから全部ヤだったんだよ!」
「へ? 何が?」
「ぜんぶ!!」
キレすぎて、普段ならどんな口論でも鮮やかに勝ちを決めるサクの言葉が、珍しく崩壊している。会話になっていない。想像以上に怒られているというか、サクが全てにキレ散らかしているというか。これ、オレはどうしたらいいんだろう。
ガタン、と椅子を引く音がして顔を上げた。その場を立ったサクは、オレに背を向けてつかつかと自室へと向かっていった。
「サク?!」
「もう寝る!やってられっか!」
バアン、とサクが自室のドアを思い切り閉めた。この家に引っ越してきて、こんな音を聞いたことなんてなかったように思う。
これはかなり怒らせてしまった。ここまでの大げんか、というより、サクがこれ程までに分かりやすく怒りを露わにしたのは、今まで生きてきた中で初めてかもしれない。
生まれてからこのかた二十二年、ずっと一緒に生きてきた。小さな喧嘩は何十回、何百回としてきた。しかし、今回のコレは長引きそうだ。サクがそう簡単に機嫌を直すとは思えない。ここまでへそを曲げたサクがどのくらいで折れてくれるのか、検討もつかなかった。
はあ、と小さく溜め息を吐く。
サクの気持ちも分からなくはない。オレがサクの立場なら、同じようにキレるかもしれない。何より、俺のせいでサクは一年、留学まで一緒にしたのだ。お前の為に費やしたあの一年を返せ——なんてもし言われたら、オレは何も言えない自信がある。勿論、サクはそんな不毛なことは決して言わないだろう。それは分かっている。だからこそ、この溝はしばらく埋まらない確信があった。
「……きっついなあ」
固く閉ざされたままのサクの部屋の扉を見て、オレはもう一度溜め息を吐いた。
1コール、2コール。イライラと自分の膝を指で叩きながら、耳に当てたスマートフォンの呼び出し音を聞く。冷静にならなければという気持ちはあるが、そんなものよりもこの怒りの感情のやり場を作る方が先決だった。プッ、とやっとコール音が止まった。
『はい、もしもし。朔、突然どうし……』
「聞いてくれよ龍太郎!! やってらんねえ!!」
『…………一応、聞こうか』
感情のままに言葉をぶつけるこちらとは反対に、電話の向こうの聞きなれた声は、努めて冷静に話を聞こうとしてくれた。
苛立ちと腹立たしさとその他もろもろで上手く考えがまとまらず、結局手に取ったスマホで、つい先日まで双子の弟の彼氏をしていた張本人、海龍太郎に電話をかけるという暴挙に出た。
こんな話を出来るのは、この状況ではコイツしかいなかった。両親もダメだ。愁もあまりこの件は詳しくない。そうなると、もうこの場面ではコイツしかいないと判断した。
自室のベッドに座りながら、今日あった一部始終を龍太郎に話していく。口に出すうちにまた苛立ってしまい、何度か口調が荒くなってしまった。そのたびに「まあ落ち着け、それで?」と先を促してくれた龍太郎に感謝しつつも、理不尽に腹が立ってしまう。こっちはこれほどイライラしているのに、お前は何とも思わないのかと。お前の元恋人だろうと。言ったところで意味がないと分かっているのに、つい言いたくなってしまった。
『なあ朔、お前からの電話が珍しいとか、色々言いたいことはあるんだが……まず、念のために聞くぞ』
「なんだよ」
『元恋人のそういう話を聞かされた俺にどうしろと?』
「今すぐカズトのこと攫ってどうこうしてくれ」
『無茶言うな』
電話の向こうで龍太郎が苦笑したのが分かる。鼻で笑われているような気がしてしまって面白くない。電話越しで無意味だと分かりつつも、ついつい顔を顰めてしまった。
『カズトがカズトらしく居られているなら、それに越したことはないだろう』
「そういうことじゃねえんだよ」
『じゃあどういうことなんだ』
不機嫌さを露わにするオレと違って、恐らく龍太郎が穏やかな表情をしていることは、声の調子で分かってしまう。約十年つるむことになってしまったハルキほどではないが、この龍太郎という男とも、留学してからなのでそれなりに長い付き合いになる。ここで一緒になって感情を爆発させる男ではないことは、よく分かっているのだ。
『朔、前から思ってたんだ。お前が、ハルキを嫌った上で、俺なら良いと言った。その理由はなんなんだ』
「お前がちゃんとカズトのこと好きだからだよ」
『は?』
龍太郎が疑問符を浮かべる声が聞こえた。どう言ったらいいか分からず、口を開けて、閉じて、少し視線を揺らしてしまった。あまりこのことについて説明したくないし、今まで説明したこともない。聞いて来るやつもいなかったし、そんな機会など無かったのだ。
言い淀んでいるオレに、龍太郎は再度尋ねてきた。
『あの星空陽輝という男だって、カズトのことは好きだろう』
「そうだよ。でもダメなんだ」
『……分かるように説明してくれ』
条件反射のように拒否するオレに対して、龍太郎は困惑しながら返してくる。
この気持ちは、オレの中でもまだ整理出来てない。言語化したことがないのだ。初めて言葉に変えて、腹の中でずっとぐるぐる渦巻いていた気持ちをぽろぽろと零していく。
「……お前はさ、ハルキの方にカズトの気持ちが残ってるって気づいて、彼氏の座を譲るヤツだろう」
『言いたいことはままあるが、まあ、だいたいは合っているな』
「ハルキは、あいつはな。カズトのことが好きで手を離したくないくせに、家のせいにして身動きしないようなヤツなんだよ。そのくせ、もう一回見つかったかと思えば、こっちの都合ガン無視で手に入れようとしてくる。わかるか? 自己中なんだよ」
『……なるほど?』
龍太郎に言いながら、オレ自身も納得していく。ああ、そういうことか。オレがどうしてハルキがダメなのか。あいつがこんなにも嫌いなのか。オレはハルキが嫌いだ。だが、それ以上に——
「オレは、カズトを幸せにしてくれるヤツしか認めない。ハルキは、あいつはダメだ。そんなの、オレは……」
「……しゃべりすぎた。自分でもワケわかんねえわ」
『いや、大丈夫だ。なんとなく言いたいことは分かった』
自分の言葉が分からなくて、理解できたようで、やっぱり理解しきれなくて。言葉を詰まらせたオレに、龍太郎は穏やかに言ってくれた。
『朔、お前はそういう風に言うけどな。俺がいいとかアイツがダメとか、そういう問題じゃないと思うぞ』
「じゃあどういうことだよ」
『これから先、二度でも三度でも似たことはあるだろう。その時に、お前はどうする気だ』
——カズトが自分の手を離れたら、どうする気だ、と。
言葉になってはいないけれど、そう言われた気がした。
一瞬だけ、呼吸が止まったように思えた。すぐに誤魔化すように、電話の向こうを鼻で笑ってみせる。
「……はっ、うるせえよ。人の心配するより、自分の想い人くらいどうにかしやがれ、ばーか」
小学生のような暴言を吐いて、通話を切った。ベッドに寝転がり、スマートフォンを放り投げる。自分の奥底にあった、見ないふりを続けていたものを、突然目の前に突き付けられた気分だ。
ああ、そうだ。そうだよ。言われなくたって、分かっているさ。
——オレが一番、カズトに執着していることくらい。