——着物は、肩が凝る。
はあ、と小さく溜め息を吐いて、部屋にあるベッドに腰掛けた。さっきまで来ていた着物はとうに脱ぎすてて、今はラフな部屋着だ。面倒だと思いつつも着物はきちんと畳んで片付けたので、許されるはずだ。
ここは住宅街の中、ぽつんと一件目立ってしまっている日本家屋だ。一般家庭よりは少しだけ広く、しかし『いいとこ』と言われる家屋よりかは全然小さい。日乃宮の家の名前を知っている一部からは「お金持ちのお嬢様なんでしょう?」なんて言われることもあるが、本当の名家・豪邸を知っている身からすれば『そんなわけない』で終わりだ。
そんな中途半端な家であることを、良いとも悪いとも、思ったことはなかった。……ある一件を、除いては。
自室の机の引き出しを開けて、封筒を取り出す。
何年も前のもので、数えきれない回数読み返したものだから、封筒も便箋もかなりへたれてしまっていた。
宛先は、日乃宮朝日子。差出人は——星空陽輝。
しかしこの手紙の中身は、あのクソ憎たらしいイトコが書いたものではない。字だって、そもそもあいつはこんな地味に下手な字は書かないはずだ。
この宛名と、中身の便箋を書いた人物は、私よりも三歳も年下の男の子だ。
日乃宮の家は、書道や華道、茶道といった文化の師範を務めることで長く生計をたててきた。家で弟子に教えることもあれば、著名人の家に出向いて指南することもある。それこそ、あの日もそういった指導を行う日だった。
『朝日子、ちょっといい? 今日伺うお宅の人は、ちょっと気難しくてね。本当なら子どもは連れていけないんだけど、普段手伝いを頼んでいる人が来れなくなっちゃって。朝日子、頼める?』
あの日の朝方、母が神妙な顔でそう尋ねてきた。三姉妹の中で、茶道が一番得意なのは私だったものだから、声がかかったのだろう。失敗は出来ないと、私も気合を入れて頷いた。
母とおそろいの着物で訪問した家は、それはそれは大きな邸宅だった。映画でしかこんなの見たことない。
『雲ヶ谷』と書かれた表札はいかにもな感じに古めかしく、出迎えた男性も家主かと思っていたらただの使用人だったそうだ。使用人、という存在はイトコの家でも見かけたことはあるが、何人もの使用人が行き来する家の中はとてもじゃないが現代日本とは思えなかった。これは家のものを少しでも傷つけたら命が無いんじゃないか、なんて思えるほどだ。こんな光景、映画でしか見たことがない。
茶道の手ほどきも、指南する相手であるご婦人への対応も、全て母が行った。私はあくまで母の邪魔にならないよう、そしてご婦人に見とがめられることのないよう、黒子に徹した。
お点前と指南の時間が終わり、母とご婦人が歓談を始めてしまえば、ただの手伝いである私は暇になってしまう。母の手伝いとしてついてきただけの私が勝手にこの場を動くこともしづらく、どうしたものかと廊下に視線をやった時だった。
白いふわりとしたものが廊下を横切っていくのが見えた気がして、目を瞬かせた。気のせいだろうか。出来るだけ身体を動かさないようにしながら、目線だけ廊下に向けてじっと見つめる。
次の瞬間、ふわりと、やはり白いものが揺れた。——犬のしっぽだ。それも、かなり大きな。
どうしよう。見たい。出来れば、触りたい。
母の邪魔をしてはいけないという理性と、犬を見たいという誘惑が一瞬のうちにせめぎあい、結局口から出たのは「お手洗いをお借りしたいのですが」という嘘っぱちの言葉だった。
障子を静かに開けて、静かに閉める。中にいる母たちの視線がこちらに向いていないのを気配で確認した後、お手洗いの場所なんて完全無視で、白いしっぽが見えた方向へと早足に歩いていく。犬を見たい、という気持ちを抑えきれずに突き当りを曲がると、その先の中庭に居たのは、白く大きな犬だった。
丁寧に手入れをされているのだろう、その身体の白い毛はどこもふわふわとしており、まるで夏祭りの綿あめのように魅力的だった。つぶらで黒い瞳は、好奇心旺盛なことを隠さないように、こちらをじいっと見つめている。
「君、ここの子?」
思わず声をかけると、犬はぶんぶんとしっぽを振った。返事のつもりなのか、ワフ、と穏やかに鳴くその顔がもう愛らしい。優しい性格なのだろう。吠えることも威嚇することもなく、じっとこちらを見つめ、しっぽを振り続ける。可愛い。
もっと声をかけたい。あわよくば触りたい。撫でたい。抱きしめたい。今自分がどこの家にいるか、何をしにきたなんて関係ない。もう犬のことしか頭になかった。
「おい。僕の犬になんの用だ」
座り込んで犬を見る私に、誰かが声をかけた。母の声でも、母が指南していたご婦人の声でもない。というより、大人の声ではない。
顔を上げた先に居たのは、珍しい、灰色の髪をした少年だった。私が屈んでいるせいで定かではないけれど、身長が同じくらいだと考えると、歳は私よりも少し下だろう。その偉そうな口ぶりと、『僕の』という言葉から察するに、恐らくこの家のご子息で、つまりいいとこの坊ちゃんだ。
警戒心を露わにして眉を吊り上げる少年に、言うべきことは色々あっただろう。茶道の指導に来た付き添いです、とか、道に迷って、とか。
しかし、そんな当たり前の言葉は、可愛らしい犬の姿に目がくらんで、さっぱり出てこなかった。
「この子、あなたが飼ってるの? ねえ、触ってもいい?!」
「……え」
予想していなかったのだろう、私の言葉に目を丸くした少年は、少し戸惑いながらも頷いてくれた。
「いい、けど……大人しいから、多分噛まないし」
「ありがとう!!」
少年に全力でお礼を伝えつつ、犬にはゆっくりと近づいた。初対面なのだから、あまり積極的になりすぎて警戒されたらいけない。手が届くぎりぎりの距離にまで近づいた後に、犬に対して右手を差し出した。
急に触ったら驚くだろうと踏んで、先に敵意がないことを示したつもりだった。犬はきょとんとして、私の右手のひらをクンクンと嗅ぐ。お茶臭くないだろうか。ちょっとひやひやした私の前で、犬は私の手のひらをぺろりと舐めた。
「……っ!」
ここまで来ればもう大丈夫だろう。更に距離をつめて、犬の首回りや耳の近くをふわふわと撫でてやる。気持ちよさそうに目を細める白い犬がたまらなくかわいかった。
「随分と慣れてるな」
「犬、飼ってたから」
白くて柔らかい毛を堪能しながら、昔のことを思い出す。日乃宮の家にも、そっくりの大きな白い犬がいたのだ。
「この子とそっくりの、白くておっきい子。去年、病気で死んじゃったの」
不慮の事故ではなかったことだけが救いだろう。家族みんなに看取られて、自分たちの大事な弟は逝ってしまった。家族の手前もあってすぐ立ち直ったフリはしたが、こうしてまたそっくりな犬を見かければ、やはり胸は痛むもので。
何といっていいか迷っている少年の前で、これでもかというくらい犬を撫で、抱きしめる。時計を見たわけではないが、流石にそろそろ行かなくてはバレるだろう。最後にもう一度ぎゅっと犬を抱きしめた後、立ち上がった。
「じゃあね。撫でさせてくれて、ありがとう」
少年と犬、両方に向けて告げる。この家には母の手伝いで来ただけだ。この犬をまた撫でることは難しいだろう。名残惜しいと思いつつも、母の元に戻ろうとした時だった。
「あのさ」
声をかけたのは、あの灰色の髪の少年だった。私が立ち上がったものだから、その視線が丁度真っすぐに合う。髪色と同じ灰色の瞳が、私の方をじっと見つめていた。
「また、犬、触りにこいよ。こいつも、なんか嬉しそうだし」
言葉を選びながら喋っている少年の様子を見れば、恐らく照れているのだと予想がついた。自分の飼っている犬を可愛がられて、嬉しかったのかもしれない。これほどの家の子どもとなれば、歳の近い子に自分の犬を見てもらう機会もなかなかないのだろう。
少年の申し出は非常に嬉しかった。一も二もなく飛びつきたかった。しかし、そういうわけにもいかない。ちらりと母たちのいる方を見ながら、少年に伝えた。
「私ね、今ここにお茶を教えに来てる人の手伝いなの。たまたま来ただけだから、多分、もう来れない」
「日乃宮先生の?」
母の名前に、私はこくりと頷いた。すると、少年は少し考えて「もしかして」と言葉を続けた。
「……君さ、ハルキの親戚?」
「あいつのこと知ってるの?」
「親の付き合いで、会った事あるよ。歳も遠いわけじゃないから、よく覚えてる。それで、星空の親戚筋の名前で日乃宮の名前をみたことあると思ったんだ」
突然イトコの名前が飛び出して驚いたが、なるほど、そういうことか。流石は星空の長男だ。憎たらしいことこの上ない。しかし、それはそれで好都合かもしれない。ハルキと少年に繋がりがあるなら、そこから連絡を取れる可能性が残る。
「あいつと私はイトコ同士。それなら、ハルキにここの住所を聞いて、手紙を書くわ。日程の都合とか、それで——」
「……だめだ」
私が言葉を続けるより先に、少年が眉を寄せて呟いた。
「ここの家に届く手紙は、全部使用人が管理してる。君からの手紙は、多分、僕に届くまえに弾かれちゃう。……知らない人とかからの手紙となれば、全部捨てられるはずだ。僕が先に言っていても、ダメかもしれない」
使用人が手紙の管理。そこまでの家だったのか。少年がかろうじて言葉を濁してくれたが、恐らく私からの手紙が『弾かれる』理由は、『知らない人』だからじゃないだろう。それなら日乃宮師範の娘からの手紙ということで通るはずだ。それが弾かれるということは、おそらく『子息に届く手紙としてふさわしくない相手』だから——つまり交流相手として『釣り合わない』と判断される、ということだ。
ああ、初めてこんなところで自分の家を悔しく思うとは。犬を撫でられないから、というわけではない。この優しい少年の心遣いを無碍にすることになってしまうのが、悔しかった。
私が「そうか、ごめん」と言うよりも先に、少年が口を開いた。
「……でも、そうか。君からの手紙じゃなければ、いいんだ」
少年の言葉の意味がよく分からず、首を傾げた。私から少年に送るわけじゃないんだろうか。そう戸惑った私の前で、少年がゆっくりと頷いた。
「僕に考えがある。——ハルキに、手伝って貰おう」
それが全ての始まりだった。
文通を繰り返した。極まれに送られてくる写真が、嬉しかった。
相変わらず可愛らしい犬の姿、だけではなくて。犬と一緒に映る彼の姿に、心が躍った。
最後に送られてきた、手紙を手にとる。
『また、会いたい』
消印は四年も前。私は十七歳。相手は、十四歳。
きっと、もう忘れてる。
淡い恋心だった。初めて恋を知った。
——もうきっと、重なることはない。
懐かしい思い出を、もう一度だけ撫でて、そっと引き出しにしまった。