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白痴 ①

 血肉に濡れ、絶望と死を齎す者。汝が歩む道は屍によって作られた亡失の方途也。死生は循環と円環の路を巡り、人は母無き大地に産まれ落ち、無き父の空へ死するのだ。


 故に、大地という盤上に産み落とされた生命よ、汝が生を望むのであれば、一切の希望を捨てよ……。





 黒鉄の甲冑の中は酷く冷えていた。


 耐え難い飢えと渇き、身体の芯から冷えるような虚無感。死に近づけば近づくほどに男の殺意は鋭利な刃のように研ぎ澄まされ、憎悪と憤怒の炎は超圧的に凝縮される。


 男を縛る術や法は存在しない。儀式による遺伝的な強化を施され、蟲毒の外法で埋め込まれた無意識下の殺意は止まらない。如何に獣性を抑えつける鎖が強固であろうと、暴風雨のように吹き荒ぶ激情を鎮静化させる薬物や術を施されようと、男の内で蠢き吠え狂う埒外な力は死を欲する。


 「剣士殿、敵軍が迫っております。ご決断を」


 錆びついたみすぼらしい鎧を着る戦奴が男、剣士に問う。


 剣士は沈黙を貫き、真紅の双眼に敵軍を見据えると年老いた馬を駆り、背負った大剣を抜き放つ。激しく吠え狂い、敵軍へ飛び出した剣士は死の暴風となって血飛沫を浴びながら殺戮を始める。


 帝国の戦奴部隊を与えられた剣士に戦友や仲間と云った言葉は存在しない。質の悪い装備と飢えや病に冒された戦奴は一度戦場に立てば生存率は極端に低く、次の戦闘に耐えられない。時間と共に体力は其処を尽き、常に最前線に立たされ敵の戦力を測る為の捨て鉢にされる。戦奴部隊とは帝国正規軍の為の捨て石であり、肉の壁であるのだ。


 十人補充されたら八人が死に、女性の戦奴が入隊してもそれは心が砕けた廃人のような者。男性という存在を見ただけで泣き叫び、屍鬼累々の戦場を見れば九割が狂死する脆弱な戦奴。残った一割は狂人或いは希望を求めぬ精神的な死者ばかり。戦奴部隊とは聞こえの良い方便のようなもので、実際は帝国人が飽きた奴隷を殺処分する為のゴミ箱のようなもの。


 死人と奴隷で構成された部隊を率いていた先の将は幾重もの屍と犠牲を糧に、己は一切傷を負わずに帝国軍上層部へ配属された。その報告と辞令を聞いた戦奴は怒りと憎しみに満ちた言葉を吐いたが、次に配属される者の名を聞いた瞬間皆息を飲む。


 殺戮と死の化身、血肉を求める味方殺し、絶望を越えて絶望を下す者。黒い甲冑は血肉が渇いて酸化したものであり、彼の剣士が振るう大剣は切れ味を喪失した刃物であり鈍器。新たに戦奴部隊を率いる者の名は多くの不吉な二つ名を冠する者だが、広く呼ばれる名はそう……黒い戦奴の剣士。


 彼の逸話を耳にした者は少なくない。鮮烈な輝きを放つ真紅の瞳と閉じた貝のように口を開かない寡黙な戦奴。己が敵と認識した存在が味方であったとしても、彼の凶刃は一寸の迷い無く首を断ち血に濡れる。身に着ける装備のメンテナンスに割く時間があるならば、生命を殺し尽くすべく行動する凶剣のような男は命令違反と規律違反の常習者であり、抑えの利かない狂獣である。


 いくら絶望に染まった戦奴であろうと、絶対的な死を前にしてしまえば安らかな最期を願うものだ。獣に貪り食われた後のような無残な死骸を野に晒すのではなく、ただ人の形を保ったまま死にたいと祈り、蹲る。


 剣士が血肉と死を求めていることは帝国軍の誰もが知っている。帝国人の血を戦奴如きに与えてやろうとは誰も思わない。故に、軍上層部の者は奴隷部隊を与え、下劣な異人の血肉をあてがおうと画策した。


 謀略と策略は毒である。人を死に至らしめ、悪意ある意思を以て実行された計画は他者を焼く。だが、毒が効かぬ生命が存在し、その者が身に余る狂気と殺意を抱いて行動したらどうなるだろう? 答えは火を見るよりも明らかである。


 狂獣のような剣士は弱り果てた戦奴よりも、生き生きとした血色の良い帝国軍人と敵軍だけに牙を剥く。嘲笑う軍人を虐殺し、列となって攻め込んでくる敵兵を死の意思を以て殺戮せしめるのだ。血を浴び、武器や魔法で傷つきながら誰よりも多くの敵性存在を殺し尽くす。


 敵や味方など関係無し。誰がどういった立場で、何故意味不明な言葉を吐くのか忌々しいと吐き捨てる。嘲笑い、虐を振るう姿に憤怒の炎を燃やし敵と見做す。敵であるならば殺す。味方であっても敵意を向けられれば無意識よりも本能が先に動き、剣を振るって命を奪う。ただ、温かな血肉を求めて死を撒き散らす。


 剣士にとって戦奴という奴隷は殺す価値の無い存在だった。血色の悪い肌、やせ細った体躯、統一感の無い人種、生きる気力の無い瞳……。一人で戦場を駆け抜け、敵兵と帝国兵を皆殺しにした剣士は、血と傷に塗れた戦奴を一瞥すると大剣を背負って歩き出す。自身が率いなければならない部隊だというのに、興味が無いと言った様子で先を往く彼に、一人、また一人と後に続く。


 恐ろしかった。誰もが剣士に畏怖を抱き、触れる事も話しかける事も出来なかった。彼が何を考えているかなど、聞かなくても分かる。彼が何を思い、剣を振るって死を与えるかなども理解出来る。剣士の真紅の瞳が、彼の内に宿る力を体現し、暴圧的で破滅的な激情を言葉無く語っている故に、理解できるのだ。虐げられ、絶望のどん底に突き落とされたから、分かるのだ。


 全てが許せなかった。全てが忌々しかった。全てが殺したいほど憎かった。欲望を成す為に欲望に身を焦がし、願いと祈りを叶えるために際限無く戦い続ける存在を殺し尽くしたい。温もりを求める程に肉体は冷え傷付き、心は無限の虚無感に苛まれる。剣士という存在は、この世界と大地に産まれ落ちた瞬間から破綻しており、矛盾し続けていたのだ。


 破滅へ進みながらも生き続け、死を刻み続ける剣士は率いる戦奴の顔を誰一人として覚えていない。言葉を交わしたことも無ければ話す言語を理解しない。幾つもの戦場を渡り歩き、剣士が彼等の代わりに戦い続け、傷ついたことによって戦奴が生き永らえた事にも興味など無い。感謝の言葉と意を述べられても、剣士は少しも耳を傾けない。


 血を浴び、死を与え、傷を負うごとに剣士の戦闘能力は飛躍的に上昇し、人間離れした身体能力を得る。それは世界の摂理と法則を完全に無視した彼だけの能力であり、異次元染みた力だった。傷ついた肉体は常人の三倍の速度で治癒され、振るわれた大剣の一撃は空間さえも捻じ切り大軍を肉塊へと変貌させる。殺せば殺す程に剣士は人間性を喪失し、孤独の道を突き進む。


 転機とでもいうのだろうか。彼が人の言葉を理解するまでに至った経緯は、剣士が殺戮の効率性と強者の血肉程温かいと知った故だった。


 戦奴から副隊長と呼ばれる男が話した言葉に「敵を足止めし、弱らせ、剣士殿が敵陣を切り崩す時間を稼ぐ」とあり、奇跡ともいえるタイミングで剣士が彼の言葉を聞いた時、彼は瞬間的に人が操る言葉を理解した。


 「……貴様、名は何という」


 剣士が初めて発した言葉に部隊の皆が目を見開き、驚き戸惑う。


 「名を言え、言わなければ、貴様は肉塊だ」


 「私の名は、私は」


 ラグリゥス。黒い髪が印象的な毅然とした戦奴は、剣士の真紅の瞳を見据え、自身の名を語った。



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