砂塵の向こう側に見えるは巨大な魔導建造物。塔の形をしたその建造物には狂気を宿した一人の魔導技術者が住み、塔に近寄る生命体を容赦無しに撃滅し、滅ぼしていた。
魔導の塔。帝国兵の一人が呟いたその言葉から塔のような建造物は魔導の塔と呼ばれ、数多の兵の命を二年間絶え間なく奪い続ける攻略不可能拠点として恐れられている。
「実に恐ろしいね、うむ、アレの近くは人が踏み入るにしては些か難儀なものだ。周囲一帯の生命体の魔力を奪い、死体に残された魔力も喰らう。形だけ見るならば塔だろう。だが、アレは一つの生物とも呼べる構造を持っている。貴公はどう思う? アイン殿」
大剣の紋章が編みこまれた黒衣を纏った美女が薄ら笑いを浮かべ、黒い大剣を担ぐアインへ問う。
「貴公は確かに人外染みた強さを持つ剣士であろう。だが、生身の人であるが故に致命傷を負えば死ぬ。魔導の塔とは聞こえは良いが、アレは全身に魔導機構を組み込んだ鋼の巨人。矮小で脆弱な人間が挑むには不可能だと思われる。アイン殿、勝算はおありか?」
「カラロンドゥ、貴様は俺があの程度の玩具に殺されると言っているのか?」
カラロンドゥと呼ばれた黒衣の美女はアインの言葉を鼻で笑い、緋色の輝きを放つ切れ長の瞳を剣士へ向け、首を横に振る。
「貴公は殺されないし、死なぬだろう。世界を殺す破滅的な力は貴公の剣に宿り、共に戦場を駆け抜け死した者達は貴公の力に意思と誓いを託した。アイン殿、私は奴隷の身に堕ちるまでは帝国の賢人と呼ばれていたのだ。そんな私が何の準備もしていないと御思いか?」
カラロンドゥが指を鳴らすと空間が裂け、闇の中より異形の全身甲冑と異貌のフルフェイスが吐き出される。
「何だこれは」
「貴公の装備だよ。何時までそんな襤褸のような甲冑を着ているつもりかね。私の魔法術式と魔導技術を詰め込んだ最高傑作さ、装着してごらん」
「……」
装甲が弾け飛び、抉られ、切り刻まれた黒甲冑を外し、半壊したフルフェイスを脱ぐ。戦いに身を投じてから一度も外した事の無い甲冑は内外に血肉が染み込み異臭を放ち、乾いた血と肉片がこびり付く不衛生極まりないものだった。
「……何だ、人の顔をジッと見て」
「いやなに、初めて貴公の素顔と顔を見たなと思ってね」
「見せる必要が無い。殺戮者の顔など誰も興味無い筈だ」
「貴公がそう言っても、我々奴隷部隊は皆貴公の素顔を見たいと思っているのだがね。……いやはや、実に」
「……」
「武骨で剣呑とした男だよ、貴公は」
眉間に皺を寄せ、頬と顎に大きな傷跡を持った武骨で剣呑な顔。人を無意識に睨み付ける瞳は真紅の色を持ち、バイザー越しに見る瞳とは一線を画す輝きを放っていた。
アインの素顔と素肌を見た者は、後にも先にもカラロンドゥと彼が愛した少女のみ。副官のラグリゥスや奴隷部隊に属する隊員も知り得ぬ素顔を見たカラロンドゥは満足げに頷き、自身が作成した全身甲冑を着るよう強く促す。
「さぁ甲冑を着けてみてくれ、アイン殿」
真新しい黒鉄の籠手を嵌め、全身に黒鉄の甲冑を装備したアインは最後に異貌のフルフェイスを被る。
「どうかね?」
「何も。特段これといった変化は……」
心臓が跳ね上がる程に脈動する。全身のありとあらゆる筋肉が活性化され、疲労による痛みを打ち消し無痛へと至らせる。
遠く、何処か遠くからアインの名を呼ぶ声が聞こえ、視線を周囲に巡らせるが声を発した人物は存在しない。存在しない筈なのに、声は幾重にも重なり彼の内で暴れまわる激情を更に刺激する。撫でるように、揉むように、刺すように……無数の姿無き存在は甲冑の内側から彼に纏わりつき、しがみつく。
視点がブレる。視界が真紅に染まる。誰かの願いが殺意の意思を刺激し、誰かの祈りが憎悪と憤怒に燃料を注ぐ。幾何十人もの意思と誓いが、アインという個を群体の意思に引き摺り込み、飲み込もうと甲冑の中で胎動する。
「……れ」
黒の英雄と誰かが呼んだ。
「……まれ」
戦奴と奴隷の王と姿無き存在がアインを呼ぶ。
「黙れ!! 俺は、英雄でも王でも何でもない!!」
剣を握り、柄を強く握り締める。甲冑が軋み、鋼がアインの力による圧力で歪む。
「俺は俺だ!! 貴様等がアインという名で呼ぼうと、俺自身がその名で呼ぼうと、俺という存在を思う故に俺が在る!! 縋るな!! 頼るな!! 囀るな!! 人を贄として自分自身の意思を押し付けるな!!」
誰にも頼ったことは無い。誰かに縋ったことも無い。己の意思を誰かに押し付けた事も無い。己という個を認識し、己の求める何かを得たいが為に戦い続けてきた。誰かを守りたいだとか、譲れない何かの為に戦う高尚な意思と誓いを持っていない。己は、常に自分自身の為に戦っている。
故に、アインは己を侵食し、群体の中に取り込もうとする姿無き声に牙を剥く。群体に染まらないという意思を示し、従属しないという激情で声を圧倒する。剣を向けるのは敵、牙を向けるのも敵、敵の敵は味方などという甘えた考えは存在しない。敵の敵は敵なのだ。
「この世界に英雄などという都合の良い連中は存在しない!! 戦いの中では誰でも死ぬ!! 強い者も弱い者も誰でも平等に死ぬんだよ!! 俺は死にたいと思わないし生きたいとも思わない!! いいか!? 人は戦い続ける限り生き続けるんだよ!! 生き続ける限り意思は絶えないと知れ!!」
己の意思は己だけのもの。己の殺意と憎悪、憤怒も自分だけのもの。身体に負った傷も、流れた血も、浴びた血肉も己だけのものなのだ。
強者や弱者、生と死と。生命は意思を途絶えた時に死ぬ。身体が生きていようと、精神が生きていようと、意思と誓いが冒され挫けた瞬間に個我が死ぬ。生き続けたいと祈り、生きる為の戦いを願うならば、人は己の意思と誓いを絶やさずに戦い続けなければならない。
アインの真紅の瞳が灼熱たる殺意を宿し、肉体から死の色を宿した闘気を滲み出す。存在しない声へ剣を向け、鋭く尖った犬歯を剥き出しにした剣士は血錆に塗れた黒い大剣を振り上げ、地面に突き立てる。
「俺を英雄や王と呼びたくば勝手に呼べ!! 貴様等の願いや祈りを叶えてやるつもりは毛頭無い!! そんなに俺を群体に染めたくば気様らが勝手に染まれ!! 俺の意思と剣を邪魔するならば、殺し尽くしてやる!! 世界も、生命も、何もかもだ!!」
鼓膜を叩いていた無数の声が彼の叫びと誓約にも似た言葉によって止まる。荒れ狂う海原が一斉に穏やかな水面へ回帰したかのような静寂に、アインは自身の鼓動と荒い息遣いを聞く。
真紅に染まった視界が本来の色覚を取り戻す。ブレていた視点が正常な位置に戻ると、彼は目の前に大剣の紋章を刻んだ黒甲冑の戦奴を見る。
「……」
誰が誰だか分からなかった。様々な人種と老若男女入り混じる戦奴達は優し気な瞳でアインを見つめ、一糸乱れぬ姿勢で横一列に並び立つ。
分からない。分からないが、何処かで見たような気がする。半透明な戦奴達の顔を、繋ぎ合わせられた不揃いな甲冑も、大剣の紋章も、死と血肉で埋められた記憶の片隅に存在しているような気がした。
「……そうか、あの声は、あの存在は、貴様等だったのか」
そう呟いたアインは、既に死した奴隷部隊の戦奴を見据え、一人一人の顔へジッと視線を巡らせた。