部隊の戦士達がサレンに意識と視線を奪われ心を開く中、木箱に座ったカラロンドゥは全身が氷漬けにされたような感覚に襲われていた。
何もかもが出来すぎている。出来すぎている故に末恐ろしい。少女でありながら、人心掌握術と魔法の才に恵まれたサレンを見ていること自体が恐ろしい。
己は全てを知っている。過去も現在も全てを知っている。誰がどういう人生を送り、どんな思いを抱いて生きて来たのか全て知っている。この世に存在する魔法も、理も、魔導具の存在も全てを熟知している賢人はたった一晩で自分が送った書物を理解し、効果的に活用した少女に恐怖を覚えていた。
魔法を扱った事も、世界に触れた事も無い少女の根底にある願いが見えなかった。いや、願いだけではない。希望も、意思も、誓いも、祈りも、何もかもが奈落の闇を思わせる黒の奥底に隠されているような無の境地。
白痴であった頃のサレンであれば情報は絶えずカラロンドゥの脳に蓄積され、知識となって降り積もっていた。彼女がどんな思いで生き、どんな願望を抱いていたのか手に取るように分かっていた。だが、今はどうだ。カラロンドゥにはサレンという存在が何を思って、何を欲しているのかまるで理解出来なかった。
ひやりとした感覚が額から頬にかけて流れ落ち、それが己の汗であったとカラロンドゥが知るには暫しの時間が必要だった。
鍵、領域、人ではない何か、破界儀……。世界を変える宿命を持つ者は皆何かが欠けていて、何かに特化した人物だ。ある者は己の殺意に温もりを求め、またある者は全てを知っている故に未知を求める。何かが欠けている為に、欠けた何を補おうと手を伸ばし得ようとする。それが破界儀を持つ者の習性であり、本能とも云えるのだろう。
だが、あの娘は何だ。サレンという少女は、とっくにそんな段階を無視して領域へ至る道筋を探している。鍵という開錠の道具を持っていないのに、既に扉の前に立つ段階を迎えているのだ。
無である故に至ったのか。無である為に至る事が出来たのか。そんなものは彼女には分からない。カラロンドゥは己の破界儀を以てしても理解出来ぬ存在に冷汗を流すと同時に、長い間忘れていた歓喜の感情を思い出す。
未知との遭遇。それは彼女が思い描いていた希望への道標。知っているから世界に絶望し、知っている為に他者を迷わせる賢人は頬を紅潮させると口元に艶やかな笑みを浮かべ光を一身に浴びるサレンを見据える。
聖女と呼び称えられ、不死を演出した少女は微笑みを湛えたままアインの傍へ寄り、彼の横に立つ。部隊員全員が剣士と少女を見つめ、信奉する様は何処か不気味で、怖ろしさを感じずにはいられない。
「……運命と見るか、宿命と捉えるか、それは個人の意思に過ぎないのだろう。彼の白銀は、己という力の見方を知らぬ無の存在。無はどんな形にも変容し、色彩も不確かな空虚なる彩。変わるからこそ無限の可能性を秘め、変わらぬからこそ保つ事が出来るのか……。一つ確かな事は」
この世界は変わる。たった一人の選択で、地獄にも楽園にも変わり得る。そう呟いたカラロンドゥは己のするべき役割を自分自身に定める。
「変わった後の世界に残る選択。それは、地獄の中で正気を保つ程に難しく、狂ってしまえば世界に飲み込まれるもの。だが、特異点が存在する限り世界は完全に形を象ることは不可能。
故に、私は決めよう。変わった後の世界に希望が存在しえず、絶望だけが残されているならば新たな統合者が現れるまで、存在し続けると、己だけに誓おう。無垢なる少女よ、貴女はいったい何を望むのだろうな」
カラロンドゥは少女から剣士へ視線を映し、彼の真紅の瞳を見据える。
変わらない殺意と激情を燃やす剣士の瞳から感じる力に陰りは見えない。黒鉄の籠手に握られている魔剣の意思も、内包された世界も、剣士に追従するように鮮烈な殺意を放っていた。
鍵を持つ者は変化を望み、強大な力を有する者。変化せねば生きられない世界で、不変の殺意と激情を滾らせる剣士は破界儀を持つ者としては異例の存在であり、心境や視点が変化しようとも、彼が持つ死への誓いは変わらない。守る意思と殺す意思、
死を与える者としての誓いと命を奪う者としての誓い。アインという剣士は、既存の生命とは別規格の個体に見えなくも無い。
もしかしたら、と。カラロンドゥは思考する。
不変の殺意と無限の激情を抱える剣士は、この世界という箱庭を破壊し尽くす為に産まれて来たのではないのかと、彼女は思う。戦いに特化した力は己よりも強大な敵を殺す為に存在し、矛盾を繰り返す変化は世界に適応しながら死を振り撒く為に存在するのかもしれない。
「……」
死を振り撒き、戦いに身を焦がす剣士に無の少女が心を惹かれたら、どうなるのだろう。領域に一番近い少女が己の無色の鍵に色を添え、至る事が出来たならばその時世界はどうなるのだろう。世界は、人は、変化と意思、誓約を持たなければ生きていけなくなるのだろう。そういう予感が、カラロンドゥの脳裏を駆けた。
「……剣士よ、若き修羅よ、貴公は永遠の闘争を求めてはならぬ」
彼女の緋色の瞳が、背後へ向けられ静かな口調を以て語る。
「安寧と平穏、幸福と平和、均衡と調和。全ての要素を束ね、合わせる者が近くに居る者は幸せ者だ。貴公の剣は誰が為にあり、誰の為に振るわれるべきかよく考えよ」
視線の先には誰も居ない。誰も居ないのだが、その場には不可視の剣士が居た。
「往くがよい。貴公の存在は夢幻の如し空虚なるもの。だが、その内に存在する英雄たる王と話せ。過去の残影と、向き合うがよい」
己の過去とも夢とも思える光景を見続けていた剣士は、カラロンドゥの言葉と共に暗闇に呑まれ、伸ばした手は奈落の闇に捕らわれる。
「……次は、どんな夢を見るのだろうな。
そう呟いたカラロンドゥは、青空を見上げると煙管を咥え、紫煙を吸い込むのだった。