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8.蛍火さま

 晧月コウゲツはお茶を一口飲むと話し始める。

「実は俺が見守ってるのは、親父のところにいたときに世話になった人でな」

 晧月の父親、つまり帝。林杏リンシンは背筋を伸ばした。

「後宮……つまり親父の妃たちが住んでる宮殿のことなんだが、いくつかあるんだ。そのなかの1つである蛍宮ほたるきゅうってところに住んでる人でな。……すごく心優しい人で、俺にとっては恩人でもある。何度も助けてもらってな」

「本当にいい人なんですね」

「ああ」

 林杏は晧月の言葉を思い出す。後宮は仙人の修業とは反対にあるところ、欲や嫉妬などにまみれている、と。

「蛍宮の妃、蛍火インフオさまは親父には気に入られててな。優しいだけじゃなく、芯も強かった。侍女たちにも優しくて人望も厚くてな。親父もそういうところが気に入ったんだろう。どれだけ若い妃が入っても、必ず蛍火さまのところには通ってた」

「それなら困っていることはないのでは? 後宮の大変さはよく知りませんが、おいしいものを食べられて、美しく着飾られるんでしょう?」

 林杏がそう言うと、晧月は小さく溜息を吐いた。

「まあ、一般的な人からすりゃあ、そう思うわな。でも帝である親父が『お前を妃にする、すぐに来い』って言ったら、たとえ好いた男がいようが家族がいようが、後宮にこなくちゃいけねえんだよ。そして妃同士のねじ伏せ合戦がはじまるわけだ」

 帝の命令は、すなわち天の命令である。逆らえる人などいない。

 晧月は続けた。

「後宮に入れば、子どもだとかおばさんだとか関係ねえ。どれだけ自分が親父に愛されているか、いかに親父からの感心をなくさせるかの戦いだ。……あそこにいる人たちは、不幸だよ」

 晧月が遠くを見た。林杏が知らないだけで、晧月もさまざまなことを見聞きしてきて、思うところがあるのだろう。林杏はなにも言わないほうがいいような気がした。

「それで、そのお妃さまがどうされたんですか?」

 相談の中身を知るために、林杏は尋ねた。すると晧月は心配そうな顔で答えた。

「どうやら親父がまた妃をとるみたいでな。妃は何人迎えてもいいんだが、宮殿を与えていいのは8人までなんだ。宮殿は1つが広いからな。その新しい妃に宮殿を与えようってんだ。……宮殿8つすべてには妃が住んでる」

「それってつまり」

「そう、誰か1人を追い出さなくちゃいけねえ」

 それはあまりにも残酷ではないだろうか。自分の都合で妃を迎え、追い出してしまう。なんて自分勝手なのだろうか。しかし相手は帝であるうえに晧月の親。自身の親を悪く言われていい気分はしないだろう。言葉に迷っているのがわかったらしい晧月は「いいんだ、いいんだ」と言って言葉を続ける。

「俺も身勝手だと思うしな。宮殿に住んでる妃たちは、自分が追い出されるんじゃないかって、気が気じゃねえ。蛍火さまも近頃、溜息が増えてらしてな。さーて、どうしたもんかと」

 晧月は腕を組んだ。林杏は浮かんだ考えを口にする。

「それなら、蛍火さまに寵愛が向くように運を操作すればいいのでは?」

 しかし晧月の反応は「うーん」とあまりよくない。腕を組んだまま、今度は首までひねりだした。

「たしかに1番簡単なのはそれなんだが、蛍火さまは妃のなかは寵愛を受けたほうでな。宮殿にいる妃では2番目に高齢――といっても32歳なんだが――ではあるが、まだ年上がいるし、不安になる要素はほかの妃より少ないはずなんだ。だからなんで溜息が多いのかと思ってな」

 不安要素が少ないはずの妃が憂鬱そうに過ごしている。その心の中を知ることができればどれだけ楽だろう。

(あ、そうだ)

 林杏はあることに気がつき、晧月に提案した。

「それなら占いをするのはどうでしょう? 蛍火さまのお気持ちについて、なにかわかるかもしれません」

「それだっ、さすが林杏。さっそくやってみるか」

 晧月は窓辺に置いてある占い道具を手にとると、寝台の上で広げ、占いはじめた。手にとったのは木札の束。この木札は1人について詳しく占うときに向いている。しかし木札がなにを表しているのかまで読みとる必要もあるため、ほかの占いに比べて難易度が高い。

 晧月は3枚の木札を手にとると、裏向きに横一列に並べ、右から順番にひっくり返す。木札には記号や風景が描かれている。林杏の位置からではどんな絵柄が出たかわからないが、よほど意外な札だったのか晧月は「はあ?」とひっくり返った声を出した。

「はー……なるほど。そうきたか」

「どんな結果が出たんですか?」

 林杏が尋ねると晧月は木札を見つめたまま答えてくれた。

「蛍火さまはほかに、思い人がいるみたいだ。それもだいぶ長いな。下手したら親父の妃になる前かもしれん」

「え、じゃあ好きな人がいる状態で妃になって、今でもその人のことが好きってことですか?」

「そう、みたいだな。……どうやらその思い人の今を最近耳にしたらしく、それで揺れ動いてるみたいだな。だが、妃から宮殿を離れたいとは言い出せない」

「そうなんですか?」

 新しい妃が来るのならば、蛍火さまが宮殿の退出を申し出ても問題ない気はする。すると晧月は両肩を上げた。

「宮殿を出る、つまり妃をやめるってことだ。妃からおやじに離縁してくれって言っているようにも見えちまうだろ? だから大きな病でもない限り宮殿や住んでいるところからは出られないんだ」

「ええー。妃にしたのに出ていけって言いながら、妃のほうから離れるのは許さないとかっておかしくないですか?」

 林杏は思わず本音を言ってしまった。

「ああ、おかしいよな。捨てるのはいいのに、捨てられたくはないなんてよ。そもそも後宮なんて存在がおかしいんだ。好きで妃になったわけでもない方も多いだろう。……本当に、あんな場所なんてなくなりゃあいいんだ」

 一瞬晧月の目が恨みや悲しみで濁ったような気がした。しかしすぐにいつもの晧月に戻る。

「つまり、蛍火さまは思い人のところに行きたいが、行ける状況にないってことになるな。じゃあやれることは決まってる」

「なにをするんですか?」

 林杏にはどのようなことをすればいいのか、まったく予想がつかない。すると晧月はにんまりと笑った。

「妃をやめられる状況にするんだ、運を操作してな。もちろん不名誉な形にはしない。蛍火さまは親父ときちんと接してくれた。この方には幸せになってほしい」

 晧月の表情が柔らかくなる。

「よーし、蛍火さまの運でも操作するかあ」

「じゃあ私はそろそろお暇しますね」

「ああ、相談にのってくれてありがとうな」

 林杏は晧月の部屋を出て、自室に戻った。



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