だが肩のカーバンクルはそいつに向かって唸り声を上げている。思わず抱き上げたくなるような可愛らしい生き物に対してだ。
「これはデビルキャットという魔物だ。これで成体だよ」
「え!」
思わずマジマジと見てしまう。
篭の中では早々に正体がバレたからか、可愛らしかった見た目が豹変していく。口は真っ赤に裂けて鋭い歯が剥き出しになり、前足の爪は鋭さを増した。
「こいつは家畜荒らしなんだ。コッコやモーモーといった家畜用魔物を殺して食べる。知能も高いから人の言葉を理解し、罠を仕掛けても捕まえられない。それどころか人の指や耳くらいは食べてしまう」
「うっ」
「でも、怪我をしているのは確か。そして売ればお金になる。上手く調教すれば従魔にもなるんだ。治してくれるかい?」
「え?」
真剣な顔で殿下は言うけれど、そんな危険な生き物を治して、本当に従える事なんてできるのかな? こっちの言葉を理解してか、さっきまで俺の事を食うくらいの凶暴な顔はまた可愛いうるるん顔になっている。
こんなに賢いなら、従ったフリをして逃げ出して、また誰かを不幸にするんじゃないか?
そんなものを、治してもいいのか?
迷いが生じる。躊躇いがある。答えは難しい。
でも、求められる結果を出さないと俺の自由もないかもしれない。無言の圧力に耐えかねて、俺はさっきと同じようにした。
はずなのに、なんでか魔力が集まらない。感覚も掴めない。癒さなきゃって思っても力が出ていない感じがする。
「……いいよ、トモマサ」
「え?」
突然殿下に言われて、俺は慌ててしまう。目の前のデビルキャットは治っていない。俺は失敗したんだ。
ずしっと重くなる気持ちは、酷く苦しくなる。期待に応えないと。失敗なんて……したら嫌われる。
いらない子になる。
不意に幼い俺が囁いた。瞬間、怖くなって自分を抱きしめて、それでも震えが止まらなくなった。歯の根が合わない。
「マサ!」
声と一緒に後ろから強い腕が俺を抱きしめて、大きな手が視界を遮った。その確かさに、俺はハッとした。
「大丈夫だ」
「あ……」
大丈夫。言われて、息が吸える。抱きしめる腕に震えながら手を添えると安心する。震えが止まってきて、なんでもなかったみたいになって……そうしたら、どうして自分があんなに怖かったのか忘れてしまった。
戻ってきた視界の先で、驚いた顔の殿下とデレク、そしてロイがいた。俺を抱きしめるクナルの手を、俺は強く握っていた。
「大丈夫かい、トモマサ?」
「あ……はい」
「無理そうなら日を改めるけれど」
「あぁ、いいえ! あの、大丈夫なので」
さっきのは、なんだろう。何で俺はあんなに怖かったんだろう。失敗なんていくらでもしてきたのに。
首を傾げる俺を見て皆が難しい顔をしたけれど、殿下は俺の意志を尊重してくれたのか頷いて、懐から紙に包まれた何かを俺に差し出した。
受け取った物を広げると、それは真っ白い髪の毛だ。一房あるそれを俺は見て、首を傾げて殿下を見た。
「あの、これは?」
「今回ロイを暗殺しようとした主犯の髪だ。そいつに『死ね』と願って欲しい」
「え!」
あまりの内容に思わず手にした髪束を放り投げてしまう。
何かの冗談……ではない。殿下は暗く陰鬱な目をして、とても鮮やかに微笑んでいる。
「知っての通り、奴等は既に死罪が決定している。そして私は今回の事を到底許す事はできないし、楽に死なせてやる気もない。想像しうる限りの苦痛を与え、絶望を与え、殺してくれと懇願されても更に苦しめてから殺してやろうと思っている」
冗談……じゃ、ない? 笑っているのに何も笑っていない。刺すような視線が冷たくて震えてしまう。
「だが、慈悲もやろうかと思ってね。君がその髪の持ち主の安らかな死を願い叶えられたなら、それは女神の慈悲なのだろう。神の成すことだ、私もとやかく言うまい」
「でも!」
それは結局、俺が殺した事になる。
違う意味で震える。俺は本当に、そんな事ができるのか?
「あぁ、これについて君に罪など問わないよ。死ぬ予定の者の死因が変わるだけだ。寧ろ君はそいつにとって慈悲深い女神になるんだ。苦しみ悶え絶望しながら死ぬ定めの者が、安らかに、夢見るように苦痛なく死ねるのなら立派な救済だからね」
「……できません」
カタカタ震えながら、俺は言えた。俺に、誰かを殺す事なんて出来ない。例え罪人でも、俺は!
「謝礼は出すよ」
「できません」
「これが出来たら今まで通り、第二騎士団宿舎に住み込んでいい」
「っ、できません」
「……拒むなら、君の大切な者を私が腹いせに傷つけると言ってもかな?」
「!」
俯けていた顔を上げて、殿下を睨んだ。真っ直ぐな視線とぶつかる。まったく動じない人を前に俺が負けてしまいそう。
星那にも迷惑をかけるかもしれない。クナルにも、デレクにも……もしかしたら他の人にも。俺はもう騎士団宿舎に戻れなくて、殿下の命令に背いた謀反人になって……。
怖い。この先何の希望も見えなくなるかもしれない。ただ息をしているだけの一生かもしれない。
それでも、これをしてしまったら俺はきっと後悔する。見ず知らずの誰かの命を奪った重みに耐えられない。例え誰もが俺の行動や決断を称えたって、俺自身はずっと引きずって思い出して苦しむ気がする。
思い詰める俺の頭に、ふと手が乗った。まるで「頑張ったな」って言われてるみたいだ。
「殿下、その辺にしてください。マサが死にそうです」
背後の声にパッと顔を上げると、クナルは俺の頭を撫でながら止めようとしてくれる。
そしてロイもまた、諫めるような視線を殿下に送っていた。
そんな重苦しい中で、殿下は「はぁ~」と息を吐いた。
「分かったよ、もうしない。っていうか、私の確認は終わったしね」
「え?」
終わった?
ポカーンとする俺を余所に空気が明らかに軽くなる。次にはニッと悪い顔で笑う、知っている殿下に戻っていた。
「これで結構本気の演技だったんだけどな~。トモマサは案外頑固だね」
「え? え?」
「あぁ、その髪返して。それ、私のなんだよね」
「えぇ!」
思わず声を上げて、サッと拾って丁寧にお返しすると爆笑される。俺だけがまだ目を白黒させている。
それを見て、デレクが重い溜息をついた。
「確認したかったのは本当だが、演技についてはやり過ぎだ。悪いな、マサ」
「え? あの……」
「だって、本気で圧をかけないと分からないし。あぁ、安心して。君の処遇はそのまま。そのカーバンクルも今日から君の従魔だから」
「あの! え? 何が!」
結局、今のは何が分かったの?