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6話 黒の森の奇跡(8)

 その日、戻ってからの俺はダメダメだった。馬車を降りるときにずっこけそうになるし、ずっと上の空で夕飯作る時に指を切った。慌てたグエンが俺の手首を持って宙ぶらりんにしてリデルの所に運んだのは……恥ずかしかったな。


 開け放った自室の窓からは月が見えている。地球と同じ、今は少し欠けたものが。床に座って、月に向かって左手を伸ばしてみる。結構血も出たのに、今は傷跡もない。回復魔法は凄い。


 何をしているんだろう。今も寝なきゃいけないのに眠れなくてこうしている。とっくに消灯時間は過ぎているのに。

 膝を抱えて蹲る、この時間が嫌いだ。考える時間がある。やる事で忙殺されてしまえば余計な事は考えなくていいのに。俺に余裕なんて、いらないのに。


 抱えた膝に顔を埋めた、その時。コンコンというノックの音に俺は顔を上げて、のそりと動いてドアを開けた。


「あ……」

「あんた、流石に不用心過ぎるぞ」


 訪ねてきたクナルが眉根に皺を寄せて渋い顔をしている。その顔を今は、きっと見たくなかった。またモヤモヤしたものが胸の中に生まれてしまう。


「まだ起きてたのか」

「あぁ、うん。もう寝るから」

「……少し、付き合わないか」

「え?」


 心配させると思って言ったのに、引き留められた。迷って……俺は後ろ手にドアを閉めてクナルの後に続いた。

 彼が向かったのは中庭だ。訓練が出来るくらい広いそこには良い感じの芝が生えていて、夏の夜の心地良い風が僅かに青臭い匂いを運んでくる。

 そこに腰を下ろしたクナルに倣って隣に腰を下ろすと、抜けた満天の空が広がっていた。


「なに、悩んでんだ?」

「え?」

「怪我したって聞いた。馬車での会話の後から上の空だろ」

「あ……」


 まぁ、分かるよね。俺でも多分気づくくらいおかしいもん。

 でも言いたくない。言ってどうにかなる問題じゃないだろうし、我が儘だ。

 もし俺がもっと若くて……星那くらい可愛ければこの我が儘も通るのかもしれない。でも実際は大分精神的に枯れた、どこにでもいるモブ顔のおっさんだ。話になんないだろう。

 いや、そういうことじゃないし、クナルが見た目で態度変えるとかしないと信じてるけれど…………俺、何一人でごちゃごちゃ言い訳してるんだろう。


「大丈夫だよ」


 できるだけ普通に、笑って言った。そんな俺をジッと見ていたクナルは盛大に溜息をついた。


「分かった」


 この言葉に俺はほっとした。その裏で、悲しかった。

 望んだ結果だろうに悲しむって、どんな矛盾だよ。面倒くさいな。


 でも、違っていた。次にクナルが取ったのはヘラヘラ笑う俺の後ろに回って、ホールドするみたいに強く抱きしめる事だった。


「なっっんにも大丈夫じゃないことが分かった」

「へ?」

「あんた、そんなに自分虐めてどうすんだ。何を我慢してるんだよ。酷い顔してる自覚あるのかよ」


 言われて驚いて、体に回った腕が強くて、温かくて……泣きたくなるのは、どうしてだよ。


「俺がここを離れて、あんたとも別れる事になる。それが嫌なんじゃないか?」

「なん、で」

「その話しかしてないだろ、あの場で。そっから様子変だし。アホでも分かるっての」

「っ」


 でも、じゃあ、なんて言えばいいんだよ。「行かないで」なんて俺の立場で言えるわけないだろ。俺はただの家政夫で、事情はちょっと特殊だけど護衛がクナルでなきゃいけない理由なんかない。

 回った腕に手をかけて、グッと力を入れた。でも俺の力じゃまったく敵わない。ここから抜け出せない。


「言いたい事あるだろ」

「無いよ」

「嘘だな」

「無いったら」

「マサ、怒るぞ」

「っ! 何、言えばいいんだよ」

「行くなでいいだろ」

「我が儘だよ」

「なんでだよ」

「……困らせたくない。俺、嫌われたくない」


 ギュッと抱えるように腕を握って、俯いた。絞り出す声と、勝手に熱くなる目頭が憎たらしい。俺はここに来て甘えてる。弱くなってる。あっちの世界ならこのくらいで泣きそうになんてなってない。

 泣いたって、何にもならないから。


 頭を撫でる大きな手がある。引き寄せるようにクナルの腕に力が入って、よりしっかりと抱き込まれた。そうして耳元に吹き込まれる。


「んな事で嫌いになんてなんねーよ」


 ここが限界だった。

 ワッと涙が出て、落ちていく。俺は頑張ったのに、耐えたのに。我慢、したのに。


「この程度言ったって困んないんだよ、マサ」

「クナル」

「もっと頼れよ、本当に。全部なんとかするのは無理でも、聞くだけは聞くんだ。少し自分の中に溜めすぎなんだよな、あんたは」

「だって」


 これが俺の普通だったんだ。


 頭を撫でる手が優しい。声が優しい。みっともなくて、面倒臭いのに側にいてくれる。そんな風に優しいから、俺は困る。頑張ってきた俺が崩れて、見ないようにしてきた顔が覗いて、突然訴えるようになるんだ。


「クナル」

「なんだ?」

「俺、一緒に行っちゃ駄目かな? 戦えないけど、身の回りの事とかするから。頑張って自分の事、守れるように努力するから。一緒に、行っちゃ駄目かなぁ」


 グズグズの俺を抱きしめたまま、クナルは多分笑ってる。穏やかに、見守るみたいに。


「俺からも打診してみるから、安心しろよ」

「うん」


 確かな約束じゃないけれど、今の俺はこれだけでいい。

 言わない気持ちが言えたらそのうち苦しさは解けて楽になって、そうしたら眠くなってきた。自分よりも高い体温に包まれて安心した俺は、いつの間にかクナルの腕の中で眠ってしまっていた。


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