「っ!」
「何だ貴様!」
威圧的な声に驚き身を縮ませた俺の目に飛び込んだのは、ぐったりとした星那を抱える体躯の大きな獣人とその横を歩くスティーブンだった。
「せっ!」
思わず大きな声で叫ぼうとした俺の口を、大きな手が鷲掴むみたいに塞いだ。肉厚なグローブみたいな手で、とにかく握力が強い。強く握られたら顎の骨が砕けそうだ。
「チッ、聖女のおまけか」
「どうしましょう」
「放置もできんが、殺して騒がれても事だ」
物騒な会話に俺は小さくなって震える。目を見開いて涙目になってスティーブンを見ると、彼は陰鬱な様子でニタリと笑った。
「まぁ、連れて行けば盾くらいにはなるだろう」
「はっ」
「っ!」
口を塞がれたまま体が浮く。小脇に抱えられて足が宙ぶらりんで、バタバタしてもびくともしない。
俺は慌てた。このままどこに連れ去られるんだ。星那は! 意識がない妹が心配だ。
とっ、俺の胸元が僅かにモゾモゾ動く。それは尻餅をついた時に咄嗟にそこに逃げ込んだキュイだった。
頼むキュイ、逃げろ! そしてクナルに知らせてくれ!
既に小さなドアから外に出され、待機していた幌馬車に乗せられる寸前だった俺は伝わるか分からないけれど必死に思った。
その思いが伝わったのか、キュイはスルッと俺の服から外に出て走っていく。カーバンクルは風と相性がいいらしく、その足はとても速い。
「乗れ!」
「っ!」
乱暴に突き飛ばされて幌馬車の床に投げ出された俺を、すかさず他の奴が縛る。猿轡を噛ませ、腕と足を縛って。モガモガしている間に十人くらいの人が乗り合い、何処かに向かって走って行く。
芋虫みたいに床に這いつくばる俺を陰惨な目の男達が硬いブーツの先で小突き回している。強い力ではないけれど、明らかに馬鹿にされているのは分かる。
車輪は最初こそ滑らかに走り揺れも少なかった。けれど10分もしない内にガタガタ揺れて、時折小さく跳ねる。整備されていない道を走ってるみたいだ。
臭いも違う。湿り気のある土や葉の臭いがし始めている。
森?
咄嗟に思った俺の考えは多分間違っていない。
馬車はそのまま走り続ける。そのうちに辺りの空気が暗くなった。薄いガスの掛かったような黒い靄を俺は知っている。間違いなく瘴気だ。
そんなものが徐々に濃くなっていく、その中で馬車は止まった。
「ついたか」
人がゾロゾロ降りていって、俺も抱えられて乱暴に地面に投げられる。
背の高い、鬱蒼とした木々の合間の開かれた場所は日も差しているはずなのに暗く陰鬱な雰囲気がある。
大きな野営のテントが既に張られたそこにスティーブンが颯爽と入り、続いて星那を抱えた男。そして俺も最後にそこに放り込まれ、床に転がされ猿轡を取られた。
「あの、ここは!」
大きく息を吸って声を上げた俺の背中を何かがヒュンと音を立てて叩いた。ビリビリする痺れとヒリついた肌の痛み、一瞬響いた衝撃で僅かに息が詰まった。
「誰が発言を許した」
用意された豪華な椅子にスティーブンは座り、星那は側のベッドに寝かされる。茶色い髪の可愛らしい、片翼の少女が彼の側につき、此方を無機質に見ている。
「お前は所詮盾だ。それでも私の為に役立てるのだから、名誉に思う事だな」
「な……」
芋虫状態で転がされ、見上げるスティーブンは前に見た時よりもずっと冷たく、陰惨な雰囲気がある。綺麗に整った顔にはニヒルな笑みがあり、青い目の下には隈が見える。立ち上がった彼は俺の直ぐ側に来て、突然俺の頭を踏みつけた。
「ぐぁ!」
「気にくわないんだよ、その目。卑屈な癖に反発しようとする。武力も無ければ魔法も使えないただのおまけが、生意気な顔をするな!」
俺はそんなつもりなんてない。寧ろ怯えているし、困惑している。逆らえばどうなるか分からないのにそんな気力はない。
でも、きっとこの人にはそう見えているんだ。見たいようにしか見えないんだって、何かで読んだ。俺が何を言っても、それが例え本当でも今のこの人には届かない。
ギリギリと頭が痛くなってきた。獣人の力で本気で踏まれたら、俺の頭は潰れかねない。
呻くのも止めるとようやく、俺の上から足がどいた。
「ふん、まぁいい。ここが何処かと聞いたな? 教えてやろう。ここは黒の森だ。魔物がうようよいるこの場所の浄化を、これからするのだ」
「え?」
小さな声で俺は疑問を投げかける。その森の名を、聞いた事がある。コカトリスの異常行動で調べるって言っていたはずだ。
他にも変な事が起こってるかもしれないって。スタンピードっていうのの可能性がって、言っていた。
「聖女様のお力を存分に見せつけ、私がこの森の浄化を行う。そうすれば父上も他の大臣共も私を次の王に認めるだろう!」
悦に入った……何も見えていない目で宣言し、高らかに笑う。それはもう狂気でしかない。
でも誰も、これを間違いだと正さない。周囲には沢山人がいるのに、ニヤニヤ笑ったり無関心だったり。
これが殿下の周囲なら誰かが諫める。ロイは勿論デレクやユリシーズが。そして殿下はそうした回りの声を聞いて……。
だからこの人は、一人なんだ。
止める人もいない。それは仲間じゃないから。心配して諫めるなんて、誰も考えていない。上手く行けば自分達にも旨味があるから好きにさせているんだ。
この人は、とても可哀想な人なんだ。
「直ぐに編成を行う! 十人は待機、十人は私と共に森へ向かう! ハンナ、聖女様の術を上掛けしておけ。場所に着くまでは大人しくして貰わねばならん」
「はい、スティーブン様」
抑揚のない声の少女が頷き、眠る星那の顔の辺りで何かをしている。きっとそれで星那は眠らされているんだ。
「お前は先頭だ。手も足も自由にしてやるが、ここは既に黒の森の中。お前如きが逃げた所であっという間に魔物に食われるだろう」
「っ」
全ての自由が戻ってきたけれど、彼の言うとおり俺には逃げる術がない。足も遅いし戦えないし、自衛もできない。
何より星那がこの状態じゃ一人で逃げる事なんてできない。
大人しく頷き、連れ出された俺は改めて辺りを見回す。
鬱蒼と暗い森はまるで手招きしているみたいに思えた。大きな口を開けて、早く食われてしまえと言わんばかりに。