目次
ブックマーク
応援する
5
コメント
シェア
通報

6話 黒の森の奇跡(11)

 森の中に道はないが、俺は指示されて先頭を歩いている。どこに向かっているのか分からないけれど、俺に指示をする人は何かコンパスみたいな物を見ている。

 辺りから遠巻きな視線を感じる。耳を澄ませば唸り声も聞こえてきそうだ。


「あの、どこに向かっているんですか?」


 あまりに静かで俺は聞いた。こんな森の中の何処を目指しているのか、そこに何があるのか。まったく想像できない。

 俺の間抜けな質問に少し離れていたスティーブンがフンと鼻を鳴らした。


「この先に泉がある。そこへ向かっているのだ」

「そこに何かあるんですか? 星那に浄化させるって」


 神殿とか? 神聖な泉とか、そういうものだろうか。

 平凡で貧相な俺のイメージではその程度だ。

 けれどスティーブンの答えはもっと違ったものだった。


「何もない」

「え?」

「かつての聖女がその泉で浄化を行い、見事この森を鎮めたというだけだ」

「では、その泉が神聖な何かなのですか?」

「そんな話は聞かない」


 じゃあ、なんであえて危険なそんな場所でわざわざ?


「あの、その聖女様はその後……」

「死んだそうだが?」

「!」


 その言葉に、俺の足は止まった。

 死んだって……じゃあこの人は星那が同じように死ぬかもしれないと分かっていて、浄化させようとしてるってことか?


「おい!」

「星那が死ぬかもしれないとは、思わないんですか」


 押し殺した声が自然と出ていた。いきり立つ人の声も、この時は怖くなかった。ただ怒っていて……足元から何かの力が湧くぐらい怒っていて、怖いなんて感じていられなかった。

 そんな俺に向かい、スティーブンは鼻で笑ってみせた。


「その娘が死ぬ事くらい、なんだという。国の為、人の為に犠牲となったのだ、尊いではないか」

「なん……て……?」

「大体、私が呼んでやったのだ。その私の為に働くのは当然の事だというのにお前達ときたら兄に尻尾をふりおって。恩知らず共め」


 目を見開いて、グッと握り込んだ拳が痛いくらい震えていて、頭の中が真っ白になるくらい怒っている。生まれてこんなに怒った事なんてないくらいだ。


「私への感謝の念も忘れたお前達に輝ける場を用意したのだ。有り難く」

「誰が呼んでくれと頼んだんだよ」


 限界だった。

 振り向いた俺はズンズンとスティーブンへと近付いて、怒りのままにその胸ぐらを掴んだ。弱い俺の予想外の行動に彼は驚いた顔をしたけれど、俺はその顔を思い切り殴っていた。


「なっ!」

「誰が呼んでくれなんて頼んだんだ! 俺にも、星那にも、元の世界の生活や大事なものがあったんだ! 帰れるなら今すぐにだって帰るんだよ! あんたの世界の人間がどうなろうが、俺達に救う理由なんて本当はこれっぽっちもないんだぞ!」


 元の世界にいれば、俺は今日も店の仕込みをして、常連の顔を見て世間話をして、そこに星那がいて、たまに友人が遊びにきて。

 母さんの墓参りも、義父さんの墓参りも約束していた。毎年帰り際に「来年もくるから」って言っていた。その約束がもう果たせない。二人の墓は誰もこなくなって、俺達は突如あの世界から消えていて、どんな扱いになったかも分からない。大事なもの全部を置き去りにしなきゃならなくなったんだ!


 まだ呆然としている勘違い野郎が憎くて近付いて馬乗りになっていた。涙が出てきて、悔しくて奥歯を噛みしめたままブルブル震えて。


 それでも今は、この世界が嫌いじゃない。

 助けてくれた人がいる。優しくしてくれた人がいる。不安な俺を仲間にしてくれた人達がいる。

 その人達の為なら、俺はきっと喜んで力を貸す。この異世界を助けてくれって頼まれたら、嫌だなんて言わない。


「返せよ、俺達の大事なもの。あの世界に置き去りのままのものを返せ! 呼んだなら逆もしろよ! それがあんたの責任じゃないのか!」

「っ!」

「俺達から大事なものを奪った償いをまずはあんたがしろよ! 俺達は、都合の良い道具じゃないんだぞ!」


 ドンと胸を叩いて、泣いて……それしか俺には出来ない。ここにきて、こいつを見て溢れた思いは苦しくてたまらない。そんな俺を、スティーブンは呆然と見ていた。


 その時、突然地面が揺れた。地震というには予兆もなく、同時に背筋が震えて動けなくなった。

 何か、とんでもなく恐ろしいものが生まれた。木々をへし折る音に、近付く振動。地面が揺れて立っている事すら困難な中、それは突然現れた。

 暗くなった視界は瘴気じゃなく、物理的にだった。高い木々よりも更に頭が飛び抜けた何かが見える。まだ遠いはずなのに可視出来る大きさだ。

 灰色のそれは体高でビルくらい大きい、牛のような、象のような魔物だった。血のように赤い目が光り、拗くれた大きな角を震わせ、明らかに此方を見て前足を掻いている。牛がこれから突進する、その前運動みたいな感じだ。


「ベヒーモスだ……」


 誰かが呟く。それは瞬く間に広がって大きな悲鳴と混乱になる。星那を抱えていた奴は彼女を地面に放り投げ、来た道を全速力で逃げていく。それにつられて他の奴も逃げた。

 俺と、俺に馬乗りにされているスティーブンと、放り出された星那だけがその場に残された。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?