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6話 黒の森の奇跡(14)

 その背後からベヒーモスの足音は近付いてくる。徐々に距離が詰まってきているのが分かる。脂汗を浮かべるクナルにもそれは伝わっている。

 だから、彼は俺を水の膜で包んで走りがけに脇へとぶん投げた。


「っ!」


 一瞬だった。何も言うことが出来ない間に俺は投げられてベヒーモスの進路から外れた。

 地表を削る捻れた角が獲物を捕らえて弾き飛ばす。木々も土も石も一緒に上空へと舞い上げた中に、確かにクナルがいた。


「あ……あぁ!」


 空高く舞い上げられ、木の葉みたいに落ちてくる。色んなものが無秩序に。一緒くたに。俺は走った。足を滑らせ、転んでも直ぐに起き上がってドサドサと落ちてきたその中へと飛び込んだ。そして直ぐにうつ伏せに倒れるクナルを見つけた。

 抱き起こそうとしても持ち上がらない。力の入っていない体はずっと重い。


「クナル!」


 揺すって、とにかく上向きにと思って体勢を変えようとした俺の目の前で、どろりと真っ赤なものが溢れる。沢山の血を吐いたクナルの目に光は薄くて、下半身はまったく動かないみたいで……息もヒュ……と、とても小さかった。


「あ……」


 死んでしまう……俺が殺してしまう。

 必死に願っても力なんて出てこない。こんなに心の底から必死に願っているのに癒しの力なんて出てこない。


「クナル……」


 涙で世界が歪む。その俺の耳に、余裕たっぷりの振動が聞こえる。獲物はもう動けないと分かっていて、いたぶるつもりなんだろう。


「マ……サ」

「!」

「逃げ、ろ」


 小さな、でも確かな声がする。見下ろした先に、薄青い目がある。今にも消えてしまいそうなのに、まだ希望を手放さない輝きが残っている。


 地に触れるクナルの手。その先から地面が凍る。土が、緑が白く変わっていく。細く長く息をして、辺りは真冬のように冷たくなった。その氷がベヒーモスの足を凍らせていく。


「逃げ、ろ」

「い、やだ」


 涙が落ちた。抱えて逃げようともがいたけれど、動かない。

 必死な俺の耳に、くくっと笑う声が聞こえた。


「ほんと、変な奴……逃げたいくせに」

「クナルを置いていけない!」

「……俺はもう、無理だからいい」

「!」


 ポタポタと、口元から血が落ちていく。足も動かない。僅かに意識を取り戻してもこの傷では……。


「逃げろ……あんたを、死なせたくないんだよ」


 それは俺も同じなんだ!


 地面に崩れた俺達に、怒り任せの咆哮が聞こえる。

 俺は必死に願った。傷治れ! 守って! と。

 でも何も出てこない。傷は直らない。守ってもらえない。

 目の前でクナルの目が閉じ、フッと小さく息を吐いた。それが、母が息を引き取った時の光景と重なった。


「!」


 なんで、どうして。祈れば助けてくれるんじゃないのかよ。こうならないための力があるんじゃないのかよ!

 嫌だ。町が壊されるのも、優しくしてくれた人が悲しむのも、死ぬのも嫌だ。クナルが死ぬのは嫌だ!


「あ……あぁ……」


 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! なんで、どうして! 俺の望みは叶わない! 俺の大事なものを奪っていくばかりだ! こんな……こんなの!


 俺は絶対に認めない!


「あぁぁぁあぁぁあぁぁぁ――っ!」


 声の限りに叫んで、クナルを強く抱きしめた俺の中で……何かが弾けて爆発した。

 それは真っ白い光になって俺の中から飛び出して、爆弾のように辺りを巻き込み弾け飛んでいく。立ち並ぶ木々の隙間、草の間を光が爆風となって通り抜け、全てを塗り替えていく。

 俺達を襲ったベヒーモスはその光に飲み込まれて塵となり、森にいただろう数千の魔物も同じく消えた。厚く立ちこめた瘴気は消え、倒れたばかりの木々に苔が生え、抉れた大地に緑が芽吹く。広く広く伸びる光の爆弾が黒の森を覆うと、役目を終えて消えていった。

 残された俺の周りはとても綺麗な世界だ。俺とクナルを中心にした大地に白い花が揺れている。明るい日が地上まで注ぎ込んでくる。


「あ……」


 呆然とする俺の腕の中は温かい。冷たくなりそうだったクナルは汚れていても傷もなく、肌色も戻っている。消えそうだった息は安定している。

 その頬に涙が落ちた。どうしようもなく溢れたものがポタポタと。


「クナル」


 良かった、生きてる。頬に触れて、安心した。

 だが次に、俺の視界は急激に歪み、自分が座っているのか倒れてしまったのかすら分からなくなる。上も下も判断できないまま胸が痛くなって体が冷えて直ぐ、目の前が真っ暗になった。


§


 ふ……と、意識が戻った。

 そこは真っ暗なのに辺りが見える、妙な場所だった。上も下も、前後左右すら分からない。足が地についていないことは感じる。でも他は、この場所が暑いのか寒いのかすら感じ取れない。


 俺、死んだんだ。


 漠然とそう思った。


『あら、まだ死んでないわよ? ギリギリだったけれど』

「!」


 何も無いと思っていた世界に突如女性の声が響いて、俺は辺りを見回した。するとふわっと優しい明かりが灯って、そこに一人の女性が立った。

 桜色の優しい髪を波打たせた、愛らしい女性だ。顔立ちは柔らかく、ぱっちりと大きな新緑の瞳にふっくらとした唇。顔も小ぶりで、お人形みたいだ。


 そんな彼女がにっこりと微笑んで近付き、俺に手を差し伸べてくる。


『会えて嬉しいわ、智雅。まぁ、こんな形ではなかったんだけれどね』

「あの……」

『あぁ、私? 自己紹介もまだだったわね』


 ここが何処とか、貴方は誰とか、俺は色々混乱している。

 そんな俺の心情を察してか、彼女はニコッと笑った。


『初めまして。この世界の女神アリスメリノよ。気軽にメリーさんって呼んでちょうだい』

「女神! いや、でもメリーさんはなんか」


 某都市伝説を彷彿とさせるので気が引けるのだけれど。


 それにしても、この人が女神……もっと近寄りがたい神秘的な感じかと思っていたのに、随分と親しみやすい雰囲気がある。

 いいんだろうか?


「あの、女神様。俺は死んでないんですか?」

『ギリギリね。もぉ、あんな無茶な力の使い方したら流石に魔力が枯渇するわよ。いい? そのスキルはもの凄く強力なの! だから使う時は対象を絞るのよ。今回なら魔物限定で浄化して、目の前の相手だけ蘇生させないと。感情任せに手の及ぶ範囲全部の浄化と再生なんてさせたから』

「あの、ごめんなさい。いや、でも俺ちゃんと願ったはずなんですけれど?」


 助けて。守ってと祈り続けていた。

 首を傾げる俺に、女神は少し意地悪な顔をした。


『足りないわよ』

「え?」

『命を助けるには祈りが足りない。祈っても、それに魔力を練り込まなければスキルは発動しない。カーバンクルを助けた時を覚えてる? 意識を集中させて、癒したいという願いに魔力を練り込んでいた』


 思い出してみると、確かにあの時は直接触れなかったから、透明な手で覆うようなイメージをして触れて包んで撫でて、治れって思っていた。

 あのイメージが大事ってことか?


『魔法はイメージと、そこにどれだけ魔力を込められるか。その発動スピードが重要なのよ』

「あの、でも俺のはスキルで、呪文みたいなものはないので」

『無いなら付ければいいのよ? どうせそれ、貴方しか扱えないしね』

「……え? そんな適当なんですか?」


 普通、決まったものとかあるんじゃ? ヒールとか。

 でも女神は考えて、あっけらかんとした様子で『ないわ』と断言した。


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