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紫釉の治療は一定の効果はあったようで、凄く体が楽になったと喜んでくれた。でも俺の感覚としては対症療法でしかない気がする。ひとまず痛みを取り除いて症状を緩和させる程度。根本的な治療にはなっていない。
そもそもの原因が分からない。俺は異世界の人間で、魔力なんてつい最近まで無縁だった。そんな奴が原因を探そうにも難しいのかもしれない。
一瞬クナルに聞こうかとも思ったけれど、守人の燈実にも言っていないらしいので聞くのを躊躇った。あまり公にしていい問題でもないだろうし。
夕方の鐘が鳴る頃、クナルと燈実が戻ってきた。凄く妙な顔で。
「え? 何も居なかったの?」
その報告に俺だけではなく紫釉も驚いた。そして現地を調査していた二人も納得がいかない様子だった。
「リヴァイアサンと出くわす可能性は低いとは思ってたが、まさか魔物すらいないとは思わなくてな」
「妙ですね」
難しい顔で思案する紫釉は心配そうにしている。
俺としてはそんなものに出会わなければそれで良しなんだけれど。
「急激な変化は善し悪しに関わらず何かの前触れである可能性が高いので、何事も起こらなければよいのですが」
「俺の隊には一応警戒し、有事の際には真っ先に動けるよう通達いたしました。彼等も異変を感じたようで、皆が頷いてくれています」
「マサ、絶対にキュイを側に置いとけよ。嫌な感じがするぜ」
キュイは最近秀鈴と遊んでいる。随分俺に馴染んだみたいで、最近では離れていても平気になった。それでも何かあるといつの間にか俺の肩に乗っているんだから驚きだ。
腑に落ちない異変。夕食の場は緊張したものとなってしまった。
その夜の事だ。
俺はなんだか見覚えのある夢を見ていた。
薄暗い世界にふわふわ浮いていて、その中でふと目が覚める。
一瞬、女神が何か伝えようとしているのかと思った。けれどそれらしい姿はない。それに俺、死にかけてないし。
そんな事を思っていると、不意に誰かの声がした。
――タスケテクレ
低く深い悲しみを溶かした声が何処からかする。でも辺りを見回してもそれらしい誰かは見つけられない。
その直後だった。
ドォォォォォォン! という地面や空気を激しく揺さぶる衝撃に、俺は現実世界でリアルに寝台から転げ落ちた。体も数ミリ浮いた気がする。
「あで!」
地面に転がって腰を摩った俺の肩にキュイが乗り、警戒している。そこにバタバタと足音がして、直ぐにクナルが駆け込んできた。
「大丈夫か!」
「うん。何があったの?」
現状が何も把握できていない俺を立たせたクナルが窓の外を指す。そちらを見て、俺は目を丸くして震えた。
乳白色の結界の外に巨大な影がある。長大な、蛇にも似たその姿を俺は知っている。
俺の知る龍ってやつに似ている。が、神々しいのではなく禍々しい。
体は真っ黒な鱗に覆われ、頭には棘のような突起物が複数出ている。手足はなく、ヒレなのか蝙蝠の羽なのか分からない皮膜みたいなものもついている。
目は鋭く濁った赤色をしていて、こちらを睨んでいた。
山一つ分ありそうだと思った霊亀の倍くらい大きなそれが長大な体をくねらせながら距離を取り、突進してくる。突き刺さりそうな細く鋭い頭からぶつかって、さっきと同じ衝撃が伝わった。
「うわぁ!」
よろける俺をクナルが支えてくれる。
その間にも場はもの凄い混乱だ。
「俺はトウミを補佐しに行く。シユ様が塔へ来て欲しいと言っていた」
「分かった。クナル、気をつけて」
伝えて着替えようとして……不意に後ろからギュッと覆うように抱きつかれた俺は驚いてそちらを見た。
「クナル?」
「気をつけろ」
不安そうな声と表情、ぺたんとした耳。それらを見て、心配だって言われている気がして、俺は笑って頷いて同じように抱きしめた。
「クナルこそ、一番危険だから気をつけて。無理しないで」
「あぁ」
女神様、どうかクナルを守ってください。危険が少ないように、お願いします。
俺の祈りが不意にクナルを覆って、次に海神の涙に吸い込まれていく。すると取れてしまいそうな首飾りの真珠がクナルの胸元にスッと埋まった。
「……は?」
「うわ……」
俺、また何かやらかした?
鎖骨の辺りに薄らと盛り上がっている部分があるけれど、これって海神の涙……だよな。え? 埋まった? 埋まるのあれ!
「……後で事情説明つきあえよ」
「うん。ごめん」
なんて言い訳しよう。あと、取り出せるのかな?
そんな事を思う俺の頭を一撫でしたクナルは頼もしく口の端を上げる。
「まぁ、これで外れるかもしれない心配もなくなったからな。存分に働くさ」
「うん。気をつけて」
出ていった人を見送って、俺も手早く着替える。肩にキュイを乗せて向かったのは塔の一番上。今もこの結界を維持する為に必死になっているだろう人の元だった。
門番はすんなりと通してくれた。そうして最上階へと駆け上がった俺が見たのは、今にも倒れてしまいそうな紫釉だった。
「紫釉さん!」
浮いている宝珠を抱きしめたまま真っ青な顔をした彼は苦しそうに顔を上げ、僅かに笑みを浮かべる。冷や汗を流す彼へと駆け寄った俺は思った以上に状態が悪い事に気づいた。
手と足に力が入っていない。だからこそ縋るようにするしかなかったんだ。
時折痙攣し、それでも魔力を注ぐと苦しそうな声が漏れる。そんな人をとても見ていられない。
「紫釉さん休んで! こんな状態じゃ」
「ダメです。結界が、壊れてしまう。そうしたらこの国の民はあの怪物に食われてしまう。我は構いません。マサ殿、痛みだけでもどうか」
「その場凌ぎの治療じゃもう!」
辺りを見回し、椅子を引き寄せて座らせた。酷い汗で息もずっと切れている。白い肌は透けそうな程に青白くなってしまっている。
手に触れても脱力していて動く感じがない。それにとても冷たくなっている。手はずっと震えたままだ。