とても綺麗な文字で綴られていたのは、魔物の大発生を伝えるものだった。
「スタンピードか?」
「いや、それとも違う様子らしい。そこまでの数ではないけれど連日だって。今はレナウォンの人々と第一部隊でどうにかしているけれど、連日で疲労も酷く怪我人も出ている。押し切られそうだと」
「出ている魔物は狼型と熊、猪はよくあるが……フェンリルか」
厳しそうなクナルの視線。表情もやや曇っている。それだけ危険だって事だ。
「そんな危険な所に女の子の星那を行かせるのは! あの、俺じゃ」
「マサにはフスハイムの任務がある」
そう、ぴしゃりと言われてしまった。
フスハイムのお姫様が倒れたのはオレグが故郷を発つ二週間前。移動で一ヶ月。こっちから向かうにも一ヶ月。その間、耐えてくれているだろうか。
「この辺りにフェンリルの群が来るなんて、妙だ」
「北育ちのお前でもそう思うのかい?」
「奴等はもっと山の上にいるからな。数頭迷い込む事はあってもこの数は経験がない。むしろ、よく耐えているな」
「スティーブンが早々に結界を強化したからね。それに、秋のうちに食料をかなり蓄えてもいる。籠城もできるように」
「賢いな。あの人、本当に元に戻ったんだ」
感心したクナルはあまり心配もしていない様子で言う。俺は……正直まだ苦手意識がある。
スティーブンが心を操られていたのは知っている。元はまともな人だったと色んな人の言葉を聞いた。
それでも俺の中ではあの横暴な姿がまだあって、なかなか切り替わらない。
そんな俺を殿下はジッと見て、苦笑した。
「無理に納得しようとしなくてもいいよ、トモマサ」
「え?」
「トラウマだろ? 仕方が無いよ。数年、最低のクズであったのは否めないしね」
「でも」
「まぁ、クズで無能で最悪だった。操られていたって言われてどこか納得したな」
「私も兄として、どこかほっとしたよ」
溜息をつく殿下が笑う。すっきりとした顔で。
「セナにこの話を持って行く時、本当は気が咎めた。彼女もいい感情は持っていないだろうしね。でも、この状況は既に聖女の力が必要なレベルなんだ」
最悪、厄災になりかねない。今は頑張っているけれど、いつその頑張りが切れてしまうか分からない。だからこそ、今なんだろう。
でも、星那は嫌じゃないのかな? 危険だし。
心配する俺を優しく見た殿下が、やんわりと口を開く。
「改めて見極めたいと言ったよ」
「え?」
「まともになったと言われるスティーブンを、もう一度見極めるって。それで判断すると、彼女は言った」
「ほぉ、強いな」
「本当勇ましいよ。今も母上に剣と体術を習い、ユリシーズから魔法を教わっている」
「マジかよ……」
殿下の言葉にクナルは引きつった笑みを浮かべる。
殿下の母君と言えばクライド妃だ。とてもかっこよくて、サバサバした男の人で元は護衛騎士だったとか。
「正直、純粋な力ではトモマサよりも強いね」
「あはは……」
それはそうだよ。俺、物理攻撃なんて何も持っていないんだから。
苦笑いの俺の肩をクナルが叩く。慰められている気がするけれど、余計なお世話だっての! お兄ちゃんとして、ちょっと情けないよな……。
「クライド妃が育ててるなら、国の騎士団レベルだ。北の地でも問題ないだろうな」
「そういうこと。とっ、言う事で同行させたい。第一騎士団からも追加で人を出すから、現地に着くまではクナルが指揮を頼むよ」
「あぁ、分かった」
こうして俺達は予想外の同行者も伴って北の地へと向かう事になったのだった。
§
殿下は宣言通り翌日には全ての準備を整え、依頼が来てから二日後の午前中に出発する事になった。
約束の時間に城に行くと大きな馬車の前に星那とクライド妃が居て、俺に手を振って迎えてくれた。
「お兄ぃ!」
「星那!」
軽やかに駆けてくる星那はとても元気で明るくて、何だかそういうのも久しぶりで癒される。兄として心配ではあるけれど、側にいる人がいい人だから任せてしまっているんだ。
笑顔で近付いてくる彼女を受けとめようと思っていた俺は、次に思い切り肩を掴まれた。あっ、あれ? なんか力、強くない!
「危ない事ばかりしてるんだって?」
「え?」
「凄く危険な事ばかりしてるって聞いた!」
「あっ、えっと……」
心配を通り越して怒ってる!
目が笑っていない星那が怖くてオロオロする俺を見て、ゆっくり近付いてきたクライド妃が可笑しそうに笑っている。そしてジッと、俺を見て口の端を上げた。
「逞しい顔になったな、トモマサ。幾つか修羅場も超えたか」
「いや、そんな」
やめて! 星那の手に力入ってる! 指食い込む!
焦る俺。それを見ていたクナルがやんわりと星那の手に手を重ねて苦笑した。
「その力で掴んでたら、マサが肩を痛めるから止めてやってくれ。確かに危険な所に行っているが、こいつなりに強くなっているんだ。それに、あんたの兄ちゃんは沢山の人を救っている。怒るんじゃなく、誇ってやってくれ」
穏やかに優しく諭すように言ったクナルの言葉に俺がドキドキする。そんな風に思っていてくれたんだ。俺も、クナルに認めて貰えていたんだ。
感じてはいた。でも、改めて口にされるとまた違う。耳がジワッと熱くなってくる。
「ほぉん、可愛いねぇトモマサ。それに、随分いい物付けてるじゃん?」
「え? あぁ! お兄ぃがアクセサリー付けてる! しかも綺麗!」
「あっ、えっとこれは!」
星那の手がパッと離れて俺の耳飾りを見ている。これにも驚いてちょっとオロオロする俺の肩をやんわりと、クナルが後ろから包むように抱きしめた。
「いいだろ、セナ」
「!」
「クナルとお揃いなんだね」
「セナ、あの耳飾りはそれだけの意味じゃないんだぜ。恋人とか婚約者に贈るんだ」
ニタリと笑ったクライド妃の耳にも耳飾りがある。丸い輪に国のエンブレムの下がり飾りがついていて、そこには綺麗なオレンジ色の魔石が嵌まっている。
一方星那はこれを聞いて目をまん丸にして、次には「どーいうこと!」と俺を揺さぶってくる。そんなに揺れてちゃ何も話せないよぉ!
「マサに俺の気持ちを伝えて、付き合う事になった。勿論番になる前提で」
「本当なのお兄ぃ!」
「あぁ、うん」
激しく詰め寄られてタジタジになってしまう。なんか凄く恥ずかしいやら体熱いやらで焦る。バレたくないわけじゃなくて、なんか、こう!
「もぉ、そういうのは言ってよぉ。お祝いとか言いたいし、なんならご飯とかしたかった」
「ごめん、なんかバタバタもしてたし。なんて言っていいか分からなくて」
「お兄ぃにとって、初めての恋人だもんね」
そう、なんだよ。だから余計にこんな時、どんな顔をしていいか分からない。想像もしていなかったんだから仕方が無いじゃないか。
クナルを見ると彼も少し照れくさそうだ。目が合って、ちょっと気まずいけれど嬉しくて。このくすぐったい何かが、恋なんだろうか。
「うわ、イチャついてら。クナル、だらしないぞ」
「分かっちゃいるんだが、どうしてもな」
「お前も恋人なんざ居なかったんだから、仕方がないだろうけどな。気合い入れろよ、クナル。お前が守ってやるんだぞ」
クライド妃の激励に目を丸くしたクナルは、次にキリッとした目で「あぁ」と短く返事をした。
「すみませーん! 遅くなりました!」
ふと声が聞こえて見ると、エルシー妃が手に白い何かを持ってこちらに駆けてきている。ふわふわの可愛らしいドレスを着ているのにその足は速い。獣人のスペックの高さが分かる感じだ。
「間に合いましたぁ」
「見つかったのか?」
「はい! っていうかクライド、すっごく奥にしまってありましたわよ。私の鼻でも探すの大変でしたわ」
「悪いって」
何か、捜し物をしていたんだろうか?
そんな事を思っている俺の体に、エルシー妃がふわりと手に持っていた白い何かを掛けてくれた。
「フェンリルのコートです。軽くて温かくて柔らかいので」
「俺が昔に狩ったのを仕立てたんだが、あんま使ってないんだ。お古で悪いが着てけ」
ふわりと首筋に触れる白銀の毛は柔らかくて温かい。今もコートを着ていたけれどそれとは比べものにならないものだ。
「北の地は冷えますでしょ? 人族のマサにはとても辛いものだと思いまして」
キラキラと優しい光を称える青い瞳が笑う。そして次にはしっかりと頭を下げられた。
「家の子を、どうかよろしくお願いします」
「はい、頑張ります」
「任せて、エルシー様!」
俺達の言葉に、エルシー妃は安心した顔で微笑んでくれた。