もうそろそろ出るかと沈楽清が目をそっと開けたタイミングで、バシャンと水面が大きく揺れる。
目の前に洛寒軒が見え、驚きから思わず口を開けてしまった沈楽清の口から大量の息がもれ、ごぼっと大きな気泡となって上へと上がっていく。
一気に酸欠になり、沈楽清は両手足をばたつかせた。
それを見た洛寒軒は、ぐいっと強い力で沈楽清の手を引っ張ると、その身体を水面へと強引に引っ張り上げる。
「・・・何をしている・・・」
水から出た瞬間、耳元で低い声がして、沈楽清は答えようと洛寒軒を見つめ返し、そのまま口をつぐんだ。
見たことが無いほど怖い顔をした洛寒軒に、沈楽清は何も言えずに目線を逸らす。
そんな沈楽清に何かを感じ取ったのか、洛寒軒は容赦なくその頬を平手打ちにした。
頬に鋭い痛みが走り、沈楽清は洛寒軒に叩かれたことにぽかんと口を開けて彼を見上げたが、気を取り直して彼に笑いかける。
「本当に、何でもないんだ。大丈夫だよ。ね、心配かけてごめん。戻ろう?」
「大丈夫?何でもない?」
沈楽清本人は笑ったつもりだったが、ちっとも表情が動いておらず、固く青い顔をしたまま早口でしゃべる沈楽清に、より苛立った洛寒軒はそのままグイっと沈楽清の服の襟をつかみ上げるとその身体を強引に持ち上げた。
「・・・苦し・・・」
ぐっと喉が詰まり、息苦しさを感じた沈楽清は、洛寒軒の腕を頼むから離してくれと強めに叩く。
「お前、そうやって言って、俺のいない所でまたバカなことをするつもりか?!それだけは絶対に許さないからな!」
「ちょっ・・・違う!誤解・・・俺、死のう、なんて・・・」
「じゃあ、どうして服のまま、こんな暗闇の中で入水したんだ?!」
「どうしてって・・・」
自分でも自分の行動が分からない沈楽清は言葉に詰まる。
決して死のうと思っていた訳ではなかった。
それでも、沈んでいく身体をそのまま水に任せたのも事実だった。
「ごめんなさい・・・」
あまりに息が苦しくて、沈楽清の瞳から涙が一筋零れ落ちていく。
その弱弱しい声に反応した洛寒軒は、持ち上げていた沈楽清の身体を下ろすと、岸に上がり、乱暴にその場に投げ捨てた。
「いっ・・・」
「もう、バカなことはしないな?」
地を這うような声を出す洛寒軒に、沈楽清は何度もこくこくと頷く。
「・・・すまなかった。話をしよう、楽清。」
倒れたままの沈楽清の横に座った洛寒軒が、沈楽清の身体を自分へと引き寄せようとする。
沈楽清は咄嗟にその手を振り払った。
「いいよ!本当に大丈夫だから!っていうか、風邪ひいちゃうから戻ろうよ。」
洛寒軒がさきほど落ち込んでいた自分を気遣っていてくれるのはありがたかったが、これから永遠に離れることになる洛寒軒をあまり頼りすぎてはいけないと思った沈楽清は、軽く上体を起こすと、彼に縋りつきたいのを我慢して笑顔を作った。
そんな沈楽清に舌打ちをした洛寒軒は、その両肩をぐっと掴むと、そのまま土の上に押し付ける。
「寒軒!」
「楽清・・・そんなに自分を大切にできないなら、いっそ俺にくれないか?」
「それは、どういう・・・?」
「お前がお前をいらなくても、俺が一生お前を大切にしてやる。だから今すぐ俺のものに・・・」
自分に馬乗りになり、その服に手をかけた洛寒軒に、彼が今から何をしようとしているのか分かった沈楽清は小さな悲鳴を上げた。
自分に触れる洛寒軒のいつもよりもずっと冷たい手に、沈楽清の身体がガクガクと震え出す。
「やめて!」
濡れた服を無理やりはぎ取る洛寒軒に、沈楽清は力の限り抵抗するも、あまりの力の差に逃げることも出来ず、あっという間に全ての服を脱がされ、その場に組み敷かれた。
「寒軒!いや・・・離して・・・!」
泣き叫ぶ沈楽清を、洛寒軒はそれ以上何も話せないように自身の口でその口を塞ぐ。
息も出来ないほど深く何度も口づけられた沈楽清は、酸欠になってぼんやりした頭で、なお洛寒軒の手から逃れようと、その身体を何度もよじらせた。
今までも洛寒軒から抱かれそうになったことはあった。
それでも、その時の彼はどこまでも優しかった。
そんな洛寒軒の乱暴な振る舞いに、これでは原作と同じではないかと、沈楽清の顔がみるみる蒼白になっていく。
「お願い・・・もう、やめて・・・」
あまりの恐怖から、ひっくひっくと泣きはじめた沈楽清を見て、それまで乱暴だった動きをピタリと止めた洛寒軒は、打って変わったように沈楽清の頭をあやす様に優しく撫で始めた。
「ようやく泣いたな。」
洛寒軒の一言で、沈楽清の中で押さえていた感情が爆発する。
情けないとか、自分にはそんな資格はないとか、色々な思いが頭に掠めて今すぐ泣き止まないといけないと思うのに、沈楽清は涙を止めることが出来なかった。
そんな沈楽清を見ながら、洛寒軒は覆いかぶさっていた沈楽清の身体から離れて、脱がした彼の服の水を絞ると、その身体にそっとかけ、そのまま子どものように泣きじゃくる沈楽清を抱き上げた。
「楽清、すまなかった。」
「寒・・・軒・・・」
「帰ろう。服を着替えて、二人でお茶を飲もう。それで話をしよう。いくらでも何でも聞いてやるから。」
洛寒軒は抱き上げた沈楽清の額と涙で濡れる瞳にそっと口づける。
いつもの優しい洛寒軒の振る舞いに、沈楽清はしゃくり上げながらその顔を見つめた。
「お前が俺を信じてくれたように、俺もお前が何を言っても、最後にはお前の全てを肯定するから。」
その言葉に万感極まった沈楽清は、自分を抱き上げる洛寒軒の首にその腕を回し、ぎゅっと強く抱きついた。
涙で視界が揺れるのを感じながらも、ふと洛寒軒の肩越しに沈楽清は空を見上げる。
あれほど真っ暗だと思っていた空には、満天の星空と大きな月が浮かんでいた。
ざあっと木々が風で揺れ、春の夜の匂いがその場所を包んでいる。
地面から感じる土や草の匂いと、木々の匂い。
その中で、いつも洛寒軒の身体からする、甘いような、なんとも言えない良い香りが鼻をかすめ、沈楽清の頭はくらりと軽く酔ったような気分になった。
春先で、いつもなら肌寒さを感じる時間なのに、洛寒軒の体温と香りを感じた瞬間から、沈楽清は身体がどうしようもなく熱くて、どうにかなりそうだった。
「寒軒。」
泣き止んだ沈楽清は、目の前にある洛寒軒の顔にその手を添えるとそのまま口づけた。
「三回目だな。」
「え?」
「お前が自分から口づけをしたのは、これが三回目だなと思って。」
そう言われて、沈楽清は自分の中で自分から洛寒軒に口づけた回数を数えてみる。
「さっき、起きてたの?!」
「起きてはいなかったが、あんなにじっと見つめられたら起きる。なんでどうせなら起きてる時にしてくれないんだ?いつでも待ってるのに。」
洛寒軒の甘い誘惑にみるみる沈楽清の顔が赤くなる。
「追いかけてきてよかった。ずっと青かった顔色も、ようやく元にもどったしな。」
「・・・心配かけてごめん。ありがとう。」
沈楽清は自分に微笑みかける洛寒軒の頬にその手を当てる。
そんな自分を愛おしそうに見つめる洛寒軒の瞳には、『沈楽清』の姿が映っていた。
(ああ・・・俺は、もう、沈楽清じゃなくて、この世界の沈楽清なんだ・・・)
今までも何度も分かっていたはずの事実なのに、沈楽清は洛寒軒の瞳を通じて、初めて自分がこの世界の住人になったのだと強く実感した。
もう二度と元の世界には戻れない。
自分はこの世界で、この身体で生きていく。
ぼんやりと、でもはっきりとそう自覚した沈楽清は、洛寒軒の首にぎゅっとしがみつくと、その耳元で囁いた。
「寒軒・・・お願い。俺を、朝まで離さないで・・・」
いつか自分は、この選択を後悔する日がくるかもしれない。
それでも、沈楽清は自分の意思で洛寒軒と深くつながりたかった。