「栄兄、本当にありがとう。」
帰ってすぐに洛寒軒と一緒に衣服を洗濯し、術を使って乾かした沈楽清と洛寒軒は並んで沈栄仁に婚礼衣装を返した。
「あと、これ。栄兄はこれが好きだって、寒軒から聞いたから一緒に買ってきたんだ。」
そう言って、二人は一甕の白酒を沈栄仁に手渡す。
その白酒にパッと顔を輝かせた沈栄仁を見て、そんなにお酒が好きなのかと沈栄仁の新しい一面を見た沈楽清は笑いそうになってしまった。
その横で洛寒軒が飲みすぎるなよ、どうなっても知らないからなと冷たい視線を送る。
そんな二人の視線に、コホンと咳ばらいをした沈栄仁は「楽しめましたか?」と二人に問いかけた。
うん、と幸せそうに頷いた沈楽清をそっと抱き寄せた洛寒軒を見て、沈栄仁は微笑ましい気持ちでいっぱいになる。
しかし、言う事は言わねばと真顔になった沈栄仁は、沈楽清に対して跪いた。
「宗主。四日後に梦幻宮に移ります。ご準備を。」
「ありがとうございます、玄肖。あちらでも引き続き頼りない私を支えてくださいね。」
臣下の礼をとる沈栄仁に、微笑んだ沈楽清は静かに頷いた。
四日後。
朝の光で目を覚ました沈楽清は、寝ぼけ眼でいつものように洛寒軒に向かって手を伸ばした。
しかし、手を伸ばした先には何も当たらず、沈楽清はバッとその身体を起こす。
「桜雲・・・?」
昨晩は、いや、少し前までここで睦み合っていたはずだった。
特に最後の日は、一秒でも離れたくなくて、ずっと寝台の上で洛寒軒の腕の中にいたと沈楽清は覚えている。
身体には彼がつけた痕がくっきりと全身に残されていて、いつもの腰のだるさもしっかりある。
洛寒軒の声も吐息も、彼の匂いも、彼から与えられた全てを沈楽清はありありと覚えていた。
それでも、そんな自身の身体以外に、洛寒軒がいたことを示す痕跡は、そこから全て綺麗に消えて無くなっていた。
彼が着ていた服も、剣も、持っていた巾着も、彼がいつも置いていた場所には既に何も置かれていなかった。
起き上がった沈楽清は、床に落ちていた寝間着を羽織ると、その何も無くなった空間をそっと撫でる。
こうなることを選んだのは自分だった。
だから泣いてはいけないと分かっていながらも、沈楽清は溢れる涙をこらえきれず、その場に崩れ落ちる。
決して声を上げずに泣き続ける沈楽清の耳の、ピィと鳥の小さな鳴き声がして、沈楽清は窓の外を振り返った。
「・・・比翼?」
最初に見た時は怖いと思った大きな鷹が、外の木に止まっている。
比翼に向かって沈楽清が手を伸ばすと、その賢い鳥は沈楽清の手に止まり、その口にくわえていた文を渡し、元の筆の姿へと戻った。
沈楽清は比翼を文机の上に置くと、長椅子に座り、その『楽清へ』と書かれた手紙を開く。
中に入っていたのは、二枚の紙。
洛寒軒らしい几帳面な文字で書かれたそれを沈楽清は目で追っていく。
「うん・・・いつか、また。」
決して口にしなかった彼の本音が書かれたその手紙に、沈楽清は泣き笑いの表情になる。
二枚目の、大きく『愛してる』と書かれた紙をぎゅっと握りしめた沈楽清は、自身も手紙をしたためるとあの洛寒軒の瞳と同じ色の髪紐を同封し、比翼に渡した。
「比翼。これを桜雲に届けて。そしたら、また私の所へ戻ってきてね。」
ピィっと小さく返事をして比翼は空へと羽ばたいていった。
「阿清!玄肖!」
梦幻宮へと登城した沈楽清と沈栄仁に向かって、夏炎輝が扉の前で大きく手を振る。
そんな夏炎輝にふわりと微笑んだ沈楽清は「炎輝兄様。」と彼の名を呼び、足を速めた。
夏炎輝の側まで来た沈楽清は、彼に対して礼をとる。
「炎輝兄様。お会いできてよかったです。閉関からお戻りになられたんですね。今日からよろしくお願いいたします。」
「ああ、よろしく頼む。玄肖もよろしくな。」
「はい、夏宗主。私も本日よりこちらに着任いたしました。改めましてご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。」
丁寧に頭を下げた二人の肩をぽんぽんと軽く叩いた夏炎輝は、行こうと二人を奥の間へと誘う。
天帝がいる広間へ向かう長い廊下を歩きながら、沈楽清はあれこれと話しかける夏炎輝に終始優しく微笑み続けた。
前回の宗主会議とはまるで違う沈楽清の様子に、夏炎輝は目を見張ると、玄肖に近づき、その耳元で問いかけた。
「阿清は何かあったのか?なんだか・・・急に、とても綺麗になった。」
夏炎輝の鋭い指摘に、いつもは鈍い癖にと吹き出しそうになった玄肖は、なんとか笑いを治めると夏炎輝の耳元で囁き返す。
「大人になったんですよ。」
「は?大人?」
「ええ。それにきっと、あの子はこれからもっと綺麗になります。」
玄肖のはぐらかしたような答えに、ますます首を傾げた夏炎輝が、さらに問いかけようと口を開いたところで、玄肖がいたずらっぽく微笑んで先に口を開いた。
「夏宗主。今度一緒に飲みませんか?」
「え?」
「前から一度、貴方と飲んでみたかったんです。先日、美味しい白酒が手に入りまして。もしよろしければ、ですが。」
美味しい白酒の一言に、夏炎輝の喉がごくりと上下する。
「ああ、もちろんだ、玄肖。そのお酒に私は目がないんだ。ありがとう。一緒に呑もう。」
「それは良かったです。では、いつにしましょうか。」
そうだな、と夏炎輝が日付と場所を言い、玄肖は「はい。ではその日に赤誠宮へ伺いますね。」と嬉しそうに笑った。
「炎輝兄様、玄肖!そこで何をしているんですか?行きましょう。もう始まってしまいますよ!」
いつの間にか足を止めて話し込んでいた夏炎輝と玄肖の方を振り返った沈楽清は、二人に近づくと、その袖を引っ張った。
「ああ、分かった。阿清。」
「ええ、参りましょう、宗主。」
三人の目の前で、天帝のいる広間に入る扉が中から大きく開かれていく。
今日から天清沈派の宗主としての人生が始まる。
沈楽清はそっと胸に手を当てた。
洛寒軒からの手紙と比翼がそこにあるのを確認し、沈楽清は目を瞑って小さく微笑む。
(桜雲・・・私も、貴方だけをいつまでも愛してる)
目を開けた沈楽清はしっかりと前を見据えると、天帝のいる部屋へと一歩踏み出した。