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第76話

玄冬宮にある執務室の一室。

強い西日が差してきて、書類がオレンジに染まるのを見た沈楽清は、一旦手を止めると筆をおき、ぐっと大きく伸びをした。

そのまま立ち上がると、簾を下ろしに窓に向かう。

「失礼します、宗主。」

「どうぞ。」

扉を軽く三回叩く音がして、沈楽清はそちらを振り返って声をかけた。

沈楽清の声に合わせ、二人の男性が入ってくる。

「宗主、急ぎこちらの書類に目を通して頂きたいのやけど、よろしいですか?」

先に入ってきて、にこやかに玄肖はドンっと書類の束を沈楽清の机に置いた。

「今すぐ・・・全部?」

「はい。」

相変わらず仕事中は甘さが一切ない玄肖は、現在は沈楽清の副官として、ここで主に文官を務めている。

一時期は他家と関わるときに目をつけられてはまずいからと、大阪弁で話すのを辞めていたが、白秋陸派の仙人に「沈栄仁様とよく見てみれば顔が似てる」と指摘され、それ以降は話し方を意図してひょうきんに変えている。

そんな彼は相変わらず武官としても優秀で、天清沈派内でも屈指の実力者だが、沈楽清を守ることが主な役割であることから、沈楽清が討伐へ行くとき以外は彼もほとんど出て行かない。

「天清神仙、北領内に妖族が出たので討伐に行こうと思うんだが、今回も私が行っても大丈夫か?」

「ええ、大丈夫です。本当にいつも貴方ばかり大変な思いをさせてしまって申し訳ありません、陸承。」

それにより玄肖と同格の、副官の地位にある陸承が、主に武官としての職位に着いている。

兄の強さをよく知っている沈楽清からしてみれば、常に危険と隣合わせの仕事を陸承一人に押し付ける形になっているため、やや彼に対して申し訳なさを感じていた。

「気にしなくていい。あちらにいる妻子に会いに行けて、都合がいいくらいだ。」

「ああ、お子さん、また生まれたんやったっけ?何人目や?」

「彼女は一人目だが、今まで生まれた子という意味なら、これで三人目だ。」

「おめでとうございます、陸承。またお祝いさせてくださいね。」

お礼を述べ、では行ってきますと言って速足で部屋を出て行く陸承を見送りながら、沈楽清はもうすぐここへ来て一年かとこの日々を振り返った。

「最初は、どうなるかと思ったけど・・・最近は陸承ともうまくやれるようになって良かった。」

「ほんまに。長い間、彼が宗主代理をしとりましたからね。最初は反発する人が多かったから。」

「全部、玄肖のおかげだよ。色々後ろから手を回してくれてて助かりました。」

「違いますよ。認められたのは宗主の実力です。」

口では沈楽清を誉めつつ、書類をポンっと叩いた玄肖は、じゃあこれお願いしますと部屋を出て行った。

かつて天清山にある屋敷の離れで一緒に過ごしていた時とは違い、玄肖とゆっくり過ごす時間もここへ来てからはほとんどない。

いや、実際にはあえて長い時間の接触を避けていた。

彼が沈栄仁だと知っている者がいれば、彼らがどれだけ仲が良くても「兄弟だから」で済まされた話だろう

しかし、今はお互いに本当の正体を仙界の誰にも明かしていない。

この一年の間に、すっかり飲み友達になった夏炎輝にも、なぜか玄肖は自分の正体を明かさず、玄肖として彼と仲良くしているようだった。

「・・・タイミングが合わなくて俺自身は会ったことが無いけど、よくここへ遊びに来る炎輝兄様の弟ともずいぶん仲が良いみたいだし、確かに朝帰りもするよな。どの程度の関係なのかは分からないけど、栄兄はこのままで本当に良いのかな?」

簾を閉めようとして窓の外を見上げた沈楽清は、目の前にある庭の桜の木に、小さなつぼみがついているのを発見する。

「桜雲・・・」

洛寒軒と別れて約一年。

この間、沈楽清がいくら手紙を送っても、比翼がそのまま帰ってくるだけで、彼からは何の返事もなかった。

手紙を受け取ってくれているということは無事なのだろう。

今の沈楽清には、それ以外に洛寒軒の無事を確かめる術はなかった。

沈楽清は懐に常にしまってある比翼と手紙を取り出すと、それらにそっと口づけ、再び丁寧にしまった。

「さて、やるか。」

すでに積み上げられている書類と同じくらいの量がある書類の山に、沈楽清はハハハと引きつった笑いを浮かべつつ、これも宗主の仕事と再び椅子に座り直し、手を動かし始めた。


桜が咲き、散り始めた頃。

天清沈派に大きな変化が訪れようとしていた。

陸承に伴われて沈楽清の執務室に入ってきた少年に、沈楽清の目が釘付けになる。

年の頃は十五前後。

仙界には珍しい明るい茶色の短髪と同じ色の明るく快活そうな瞳を持つその面差しに沈楽清は度肝を抜かれる。

「・・・陽、明?」

部屋に入ってくるなり、ずっと頭を下げていた少年は沈楽清の声に反応し、その顔を上げた。

「本日より天清沈派にお世話になります、江陽明と申します。」

「江・・・陽明・・・」

「なんだ、天清神仙。知り合いか?」

「いいえ、初めてだと思うのですが・・・どこかでお会いしたことがありましたか、天清神仙。」

穴が空くほど自分を見つめる沈楽清に戸惑いの表情を浮かべつつ、江陽明はにこりと沈楽清に笑いかけた。

その明るい笑顔に、かつての同級生の面影が重なる。

江陽明。

高校時代の親友であり、そして・・・

「・・・仙。天清神仙!」

ぐいっと陸承に肩を掴まれ、我に返った沈楽清は「はい?」と間抜けな返事をした。

「どうした?ぼーっとして。体調でも悪いのか。」

陸承は沈楽清の額に手をやり、少し熱いかなと呟くと玄肖を呼びに外へ出て行った。

「ああ、すみません。初日からおかしなところをお見せしてしまって。初めまして。ここの宗主を務めます沈楽清です。よろしくお願いいたします。」

自分より年下の新入りに、それはそれは丁寧に頭を下げる沈楽清に、驚いた江陽明はその場であわあわと慌て始める。

「お、お辞めください、天清神仙!そんなふうに頭を下げられては、僕はどうしたらいいか・・・」

目の前の彼の一人称が「僕」だったことで、ようやく彼があの江陽明と同じではないと確信した沈楽清は、今の自分が何者かを思い出し、『天清沈派の沈楽清』として、改めて優雅に優しく微笑んだ。

その笑顔に江陽明は見惚れ、口を半開きにしてポッと顔を赤くする。

多くの者から天使の微笑みと称されるその笑顔で相手から主導権を奪った沈楽清は、目の前の江陽明に長椅子に座るよう声をかけ、部屋にやってきた玄肖にお茶を持ってくるようお願いする。

「それで、貴方はどのような経緯で仙人になったのですか?」

新しい門弟が来る度、一人一人と丁寧に時間をかけて面談する沈楽清は、いつものように江陽明に対して質問を投げかけていく。

他家とは違い、ちっとも偉ぶる様子のない年若く美しい宗主に、江陽明はあっけにとられながらも、ここはえらく働きやすそうな場所だと確信し、フレンドリーな沈楽清に対してすぐに心を開いていった。


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