トントンっと軽く扉が叩かれ、執務室で夏炎輝と打ち合わせをしていた沈楽清はそちらに向かって「どうぞ」と声をかけた。
「失礼します。」
入ってきた凛々しい青年に、夏炎輝も目を細めると「この前はどうも」と声をかけた。
「夏宗主!この前はお手合わせをありがとうございました。」
「いやいや、とんでもない。ますます強くなったな、陽明。」
「いいえ、まだまだです。玄肖様にもまだ及びません。もっと精進いたします。」
そんな二人のやりとりを、目を細めて聞いていた沈楽清は報告書を手に入ってきた目の前の青年をまぶしいものを見るような優しいまなざしで見つめた。
江陽明は今では背も横幅も、沈楽清はおろか玄肖よりも大きくなり、体格だけで言えば陸承とはるくらいになっている。
今や彼は文官が多い天清沈派の中で、陸承の副官を務める立派な武官として育っていた。
この子が来てもう五年かと思った沈楽清は、本当に大きく育ってくれたと彼を誇らしげに見つめる。
現実の陽明はあれからどうしたのだろうと、懐かしい人を思い出しながら。
「宗主。妖族の討伐が終わり帰還いたしました。」
「おかえりなさい。ありがとうございました。」
「当軍には死者重傷者はおりません。人界の被害は・・・」
すっかり慣れた様子で報告する江陽明の話を最後まで聞いた沈楽清は、一か所気になった所があり口を開いた。
「それで、その妖王を祀る新しい信仰とは?」
「えっと、なんでも最近人界によく当たる占い師?祈祷師?がおりまして・・・どうもその者を中心に新興宗教が立ち上がっているようなのです。」
詳細があいまいで申し訳ございませんと謝る江陽明を労いつつ、何か引っかかるものを覚えた沈楽清は口元へと手をやった。
「阿清?何か気になるところでも?」
「いえ・・・そこまでの人を先導する力があって仙根が出来る可能性がある方であれば、当家の者が仙人になるよう誘っていそうなものだと思いまして・・・」
「まぁ、中には口だけでのし上がれる者もいる。そうなると人界の領分だ。私たちでは手を出せない。それにしても、妖王を祀るなんて不謹慎な輩もいたものだな。」
眉を顰めた夏炎輝の言葉に愛想笑いを返した沈楽清は、江陽明を再度労い、彼を下がらせると夏炎輝に向かい合って座り直した。
「阿清。それで私に話とは?」
珍しく自分から話があると誘ってきた沈楽清を、玄肖も同席させないなんてと笑う夏炎輝に向かって、姿勢を正した沈楽清は硬い表情のまま彼に一礼する。
「炎輝兄様。兄様には本当にいつも良くして頂いています。」
「うん?どうした?改まって・・・」
「ですが、私は近く・・・江陽明か陸承に宗主の地位を譲りたいと考えております。」
沈楽清の一言に、それまで笑顔だった夏炎輝の表情が一瞬で凍る。
「・・・なぜ?」
夏炎輝の硬い声に、沈楽清は彼に全てを話そうと決心した心が僅かに鈍る。
彼が沈英仁の功績を継ぐのはその弟であるべきだと考え、今日まで自分を何度も支えてくれた事には感謝しかなかった。
そんな彼に、今から話す内容はひどい裏切りでしかない。
それでも、彼には先に話しておかなければ後悔すると思い、沈楽清はその顔を上げた。
「炎輝兄様。私はずっと兄様に話さなければならなかったことがあります。」
珍しく沈楽清の執務室の前でぐるぐると回る玄肖の姿を、廊下を通るたびに目撃していた江陽明は、さすがにそれが一時間以上も続いていたので「どうしたんですか?」と彼に声をかけた。
「ああ・・・すみません。大したことでは・・・」
「でも、ずっとここにいらっしゃいますよね?夏宗主もまだ出てこられませんし、中で何かあったのですか?もしよければ僕がお茶を運んで中を・・・」
「いや、何でもないんです。大丈夫ですよ、陽明。自分の持ち場に戻りなさい。」
口ではそう言いつつ、ずっと心配そうに中を見つめる玄肖に、隣の部屋から椅子を持ってきた江陽明が彼に座るよう勧める。
「ありがとう」と礼を言って、一旦は座った玄肖だったが、どうしても中が気になり、立って座ってを繰り返してしまう。
特に入ってきてはいけないと沈楽清から言われたわけではない。
それでも、今日彼が夏炎輝を呼んだ理由を知っている玄肖は、もういっそこの機に自分の正体を夏炎輝にばらしてしまおうかと考えあぐねていた。
そうすれば、沈楽清が宗主を辞める手助けが出来る。
意を決して扉に手をかけた玄肖は、そのタイミングで内側に開いた扉と一緒にそのまま身体が中へと吸い込まれ、扉から出てこようとした人物の胸にぶつかって抱きとめられた。
「玄肖?大丈夫か?」
「す・・・すみません。夏宗主。」
夏炎輝と直接接触したことなど、もう10年近くなかった玄肖は、自分を抱きしめる懐かしい夏炎輝の身体の感触にかぁっと顔を赤らめた。
しかし、そんな表情の変化を悟られてはいけないと胸元から扇子を取り出そうとして、その手をぐいっと夏炎輝に捕まれて阻まれる。
「何っ・・・」
「玄肖、話がある。今夜私の部屋へ来てくれ。」
耳元で急に囁かれ、耳にふいにかかった吐息に身体がビクッと震えた玄肖は、何とか小さくこくんと頷いた。
「玄肖・・・何してるの?」
夏炎輝が去っても、ふらふらと長椅子に腰かけて顔を上げない玄肖を見て、心配になった沈楽清がお茶を持ってくる。
「ありがとうございます。」
沈楽清からお茶を受け取った玄肖は、それを一気に呷ると、人払いをと沈楽清に言って彼に結界を張ってもらった。
モノクルを外して術を解き、沈栄仁の姿へと戻る。
「それで・・・話はどうなったんですか?楽清。」
「・・・宗主を辞めることを話したよ。話の行きがかり上、俺が『沈楽清』ではないことも寒軒のことも・・・」
自分が思った以上に色々な話をしていた沈楽清に驚いた沈栄仁は彼の肩をぐっと掴むと「それで、炎輝は?!」と彼に迫った。
「炎輝兄様は・・・はじめは何も信じられないみたいだった。でも、何度もしっかり話すうちに・・・分かってくれたと思う。」
「・・・そうですか・・・」
それで・・・と言いかけて、言葉につまった沈栄仁は「いえ、大丈夫です」と沈楽清に断った。
沈楽清の性格上、自分の話を夏炎輝にしたとは考えづらい。
夏炎輝が今夜自分を呼び出した理由は、おそらく今日の真偽の確認だろう。
「もしくは、私への制裁・・・と言ったところですかね。」
ぼそっと呟いた玄肖の言葉が聞こえた沈楽清は、制裁?何の?と彼に問いかける。
「決まっています。貴方と寒軒が恋仲になるのを止めなかったからです。」
「でも今はもう玄肖として、栄兄は炎輝兄様と・・・」
仙界の噂をすっかり信じている様子の沈楽清に沈栄仁は苦笑する。
「内情をお話しますと、私は六年前、彼と吞むようになった時に愛人のふりをしてくれと頼まれました。」
「愛人の・・・ふり?」
「ええ。自分は一生、栄仁以外を愛する気は無いから、と。」
正直なところ、夏炎輝の自分への愛情のかけ方は沈栄仁本人からしても想定外のものだった。
十五の時から表向きは彼の道侶と公言されていたものの、それはあまりに儚げで美しい沈栄仁が危険な目に遭わないよう彼を守るための方便であり、実際には全く恋仲ではなく、恋人になったのは十八で妖界へ行くことになったあと。
身体の関係もたった一夜だけ。
しかも、あの日からすでに10年もの月日が経っている。
なぜ自分をそこまで?と沈栄仁は戸惑いつつも、彼が今でも自分だけを愛していてくれることは純粋に嬉しいと感じていた。
しかし、そんな一本気な彼と比べて、彼以外の人と関係を持ってしまったことへの後ろめたさと、もう何年も正体を隠してきて今さらどの面下げて正体を明かせるのか、という思いが混在し、沈栄仁は勇気を出せず仕舞いでいる。
「結局は・・・ただ拒絶されるのが怖いだけなんですけどね・・・」
兄の弱気な発言に、そんなことはありえないでしょと沈楽清は思いながらも、この二人の事はこの二人にしか解決できないと思い、余計な口を挟まず、顔色が悪い兄のために、今度は彼が好きな白茶を用意することにした。