翌、十三日。
今日は、いよいよ真希乃ちゃんとルイちゃんと一緒にバレンタインのお菓子を作る日だ。まさか連日バレンタインの準備をするようになるなんて。
昨日、久留生さんとチョコレート作りをしたことは、何が何でも真希乃ちゃんに隠し通さなければならない。思わずポロっと口にしてしまわないように気を付けないと。
「じゃあ、俺は桜井と出かけてくるから」
お昼より少し前。梓くんを玄関先で見送る。お菓子作りをするということを隠して、ルイちゃんや真希乃ちゃんと家でお茶をしたいのだと言えば、梓くんもちょうどこの日は桜井さんとお昼から出かける予定があるとのことだった。
「城川と友上さんが帰ったら、また連絡して」
「うん、分かった。気を付けていってらっしゃい」
いってきます、と玄関扉を出た梓くんは数秒もしない内に戻って来ると、「忘れもの」と言って、私の頬に軽いキスをしていった。
閉まる扉を呆然と眺める。梓くんの柔らかい唇の感触が頬に残っていて、思わず掌を当てた。自分でも顔が赤いと分かるくらい頬が熱い。昨日の「あーん」といい、梓くんにはやられてばかりだ。
「も~~っ」と声が漏れる。やられてばかりなのは悔しいけれど、心を満たされていくし、いつまでもドキドキと高鳴る心臓は苦しい。
きっと私は、何年経っても、きっとおばあちゃんになっても、梓くんのことが好きなのだろう。
さて、ルイちゃんと真希乃ちゃんが来る前に、お菓子作りの準備をしておこう。
キッチンから昨日と同じようにボウルや泡だて器を用意して、作業場として使うダイニングテーブルの上に置いた。
チョコレートと今日使うホットケーキミックスも用意して、あとはチョコペンやアラザン、もうすでに出来上がっているホイップクリームを置いた。自分で泡立てなくても、味やフワフワ具合も完璧なホイップクリームがすでにお店に売っているというのだから感動してしまう。
生クリームの泡立てから自分たちでやってもよかったけれど、お菓子作りの楽しさを二人に知ってもらいたいからこそ、そこは出来合いのものを購入し省略することにした。
ルイちゃんから「もうすぐで到着するよ」と連絡が来ていた。部屋番号を伝えて、二人がやって来るのを待つ。
それから五分もしない内にインターホンが鳴った。
ルイちゃんと真希乃ちゃんだろうか。「もうすぐ」がこんなにも早いなんて驚いた。
リビングの壁に設置された、エントランスと繋がるモニターを見る。チャイムを鳴らされると勝手にカメラが起動し、モニターに映してくれる。しかしそこには誰も映っていない。
「え……?」
マイクをオンにするために『通話』ボタンを押す。
「ルイちゃん? 真希乃ちゃん?」
「……」
しかしエントランス側からは返答どころか物音ひとつしない。真希乃ちゃんとルイちゃんがふざけているのだろうか。ルイちゃんにメッセージを送って確認しようか、とエプロンのポケットに入れていたスマートフォンを取り出したけれど、怖くなって切断ボタンを押した。
画面は黒く暗転する。
胸がざわざわとする。梓くんに連絡したほうがいいかな、とスマートフォンの画面をつける。動揺しているのかメッセージアプリをアイコンの中から見つけられず、モタモタとしてしまう。
その間に、もう一度インターホンが鳴った。ビクッと肩が跳ねる。
しかしすぐにモニターにルイちゃんと真希乃ちゃんが映って胸を撫で下ろした。震える指で通話ボタンを押して、「どうぞ」とエントランスのロックを解除した。
「お邪魔しまーす!」
二人の元気のいい声が、出迎えた私に浴びせられる。二人の顔を見たら、体の力が抜けた。
「祈里ちゃん、どうしたの? 顔色悪いけど」
「あ、えっと、ここに来るとき、エントランスに誰かいた?」
「え? ううん、誰もいなかったよ」
ルイちゃんと真希乃ちゃんは「ね」と互いに同意を求めるように顔を見合わせた。「そっか」と相槌を打つ。
「え、なに? 怖い話?」
ルイちゃんが眉間に皺を寄せた。
「ううん、なんでもないの。さぁ、入って」
もう準備できてるから、と笑顔を作る。それから二人の手を引いて、リビングへと誘った。
ルイちゃんと真希乃ちゃんは怪訝そうな顔をしていたけれど、お菓子作りの材料が並ぶダイニングテーブルを見ると瞳を輝かせた。「すごい!」とはしゃぐ二人。なんとか誤魔化せたようだと安堵する。
「じゃあ、さっそく始めようか。可愛いもの作ろう!」
「おー!」と三人で拳を天井に掲げる。手洗いをして、エプロンをつけるころには、私の心も随分とほぐれていた。
ホットケーキミックスと牛乳、卵を混ぜ合わせて、カップケーキとドーナツの生地を作っていく。真剣な表情で材料を混ぜ合わせて、型へ生地に流し込んでいく二人が可愛らしくて、スマートフォンで写真を撮影した。
シャッター音に気付いた二人が「撮らないでよー」と笑う。
オーブンに生地を流し込んだカップケーキの型を入れる。二十分ほど待たなければいけない。その間に、チョコレートを湯煎にかけてテンパリングしていく。
久留生さんと梓くんと作ったときとは違い、今回は割るだけで溶けやすくなるチョコレートを使用した。
「お湯がボウルの中に入らないように気を付けてね。なめらかじゃなくなっちゃうから」
「はい、祈里先生」
ルイちゃんと真希乃ちゃんの声が重なる。この二人も私のことを先生と呼ぶのか、と面白くて笑ってしまった。「なんで笑うの?」と聞かれたけれど、その理由は内緒にしなければならない。
カップケーキが焼きあがる。竹串を通して、中が生焼けになっていないことを確認した。綺麗に焼き上がってると伝えると、ルイちゃんと真希乃ちゃんは表情を和らげる。「やったー」とハイタッチする二人の可愛らしさを久留生さんにも、ルイちゃんの彼氏さんにも見せてあげたいくらいだ。
今度はオーブンにシリコンのドーナツ型を入れる。
「もうカップケーキはデコレーションできる?」
ルイちゃんがワクワクした目で私を見る。
「ううん、粗熱取らないとホイップクリームとか溶けちゃうから」
そう伝えて、はたと気付く。そういえば、ラッピングの材料を買い忘れている。
「ごめん、私、お菓子作りのことで頭いっぱいでラッピングのこと忘れてた」
「じゃあ、ドーナツ焼いてる間に買いに行こうよ」
真希乃ちゃんが手を叩いて提案してくれる。
「すぐ近くに雑貨屋さんもあるみたいだよ」
ルイちゃんがスマートフォンで調べながら言ってくれた。優しい二人に感謝しかない。「ごめんね」ともう一度謝れば、「なんで?」と二人に首を傾げられる。
「いや、だって手間になっちゃうから……」
「全然。楽しいじゃん、こういうのも。一緒に選ぼうよ」
ほら行くよ、と真希乃ちゃんは続けて、ソファーの上に置いていた私のコートとバッグを持って来てくれる。
ルイちゃんは既に準備万端で、玄関先で「早く行こう」と私たちを急かした。
ルイちゃんが調べてくれた雑貨屋さんは本当にすぐ近くにあるらしい。歩いていけそうだね、と三人でナビを見ながら確認し合って、マンションのエントランスを抜けた。
そのとき、コートのポケットの中でスマートフォンが鳴った。
「あ、電話だ。先、行ってて」
「うん、分かった」とルイちゃんが頷く。「早く来てね」と真希乃ちゃんが言った。うん、と二人に手を振る。
誰からの電話かも、ろくに画面を見ずに私は通話ボタンを押した。
「祈里、助けてくれ」
スマートフォンのスピーカーと、私の後ろから聴こえる。
私がその声に振り返るのと、お腹にドンと何かがぶつかるのは、ほんの数秒の差だった。
「祈里は、優しい子だから、父さんを助けてくれるよな?」
黒いフードの下、落ちくぼんだ目に、私が映っている。じわり、と熱いものがお腹に広がる気がして、手を当てた。あの日、水族館で出来た薄いジュースの染みが、赤で塗りつぶされていく。
「祈里ちゃん!!!!」
真希乃ちゃんの声が聴こえる。喉が裂けてしまいそうなくらい、大きな声だ。
私を呼んでいる。返事をしたいけれど、口が上手く動かない。
真希乃ちゃんの顔が目の前にあって、その奥には曇り空が広がっている。ぽつりと、雨粒が私の頬に当たった。
そういえば、梓くんにキスをされた頬は、いつの間にか熱が引いていたことにそれで気付く。
「ねぇ! ダメ! 祈里ちゃん! ちゃんと目を開けて!」
「いま……っ、今、救急車呼んだから……!」
ルイちゃんも、どうしてそんなに泣きそうな顔をしているのだろう。泣かないで、とルイちゃんの頬を撫でようとしたけれど、指に上手く力が入らなかった。
真希乃ちゃんが自分の頬を拭う。そこに赤いものがべったりとついたのを見て、「ああ、そうだ。自分は刺されたんだ」と思い出した。
瞼が重い。胸が苦しい。疲れて仕事から帰ってきた日のように体が鉛で出来たみたいだ。このまま眠ってしまいたい。
ああ、梓くん。心配、するだろうな。
心配かけてごめんねって、ちゃんと伝えないと。梓くんだけじゃない。こんな目に遭わせてごめんねって、真希乃ちゃんとルイちゃんにも……。
そうだ。冷蔵庫に入ってる梓くんのトリュフも、今日、もっとしっかり味わって食べるつもりだったのに。それも、忘れちゃってたや……。