馴染みの喫茶店。外からは見えにくい奥の席で、ホットコーヒーを飲む。
少し離れた席に桜井がいて、ココアを注文していた。
祈里には、桜井と出かけると言って家を出てきた。それは嘘じゃない。けれど、桜井と出かけるのは、ランチをするためでも、遊びに行くためでもない。現に、桜井と俺は離れた席に座り、他人を装っている。
俺の本当の目的は、この場所で、祈里の父親と会うことだった。
東間に祈里の父親の連絡先を教えてもらって電話をかけた。一度、相手は電話に出てくれたが、ひどくこちらを警戒しているようだった。
とにかく会って話をしたいことを伝え、喫茶店の場所と待ち合わせの時間を伝えた。
もし祈里の父親がこの場に来てくれるなら、これ以上祈里に近づかないことを条件に、借金の肩代わりをするつもりだった。当分の生活資金もそこに上乗せして渡し、縁を切ることを約束させる。
もしその話し合いの途中、万が一、自分が興奮してしまうことがあったら止めて欲しいと桜井にお願いして、一緒に来てもらった。
セーターの袖をめくり、腕時計を見る。アナログ盤の時計は、待ち合わせ時間を示していた。しかし、喫茶店の扉を開けるものはいない。
外を行き交う通行人の中にも、それらしい人はいない。
心配そうな表情をして桜井がこちらを振り返る。やはりこちらのことを怪しんで、ここには来ないだろうか。お金のことは若干電話でもチラつかせたが、近藤組から「祈里に近づくな」と言われたこともあって、用心深くなっているのかもしれない。
(もう十分ほど待ってみるか……)
それでも現れなかったらもう一度電話をしてみよう。ジーンズのポケットからスマートフォンを取り出して、テーブルの上に置いた。
その数秒後。スマートフォンが着信を告げてテーブルの上で震える。ディスプレイが点灯して、『コスモプロダクション・荒木瀬那』と名前を表示した。
荒木さんから電話がかかって来るのは珍しい。
何か仕事の相談だろうか。
「はい、日下部です」
通話を取って、そう言い切るよりも先――。
「日下部さん!? 祈里ちゃんが刺された! すぐ中央病院に向かって!」
荒木さんの焦りに染められた大きな声がスピーカー越しに響き渡る。
言われている言葉の意味が半分も分からなくて、「え?」と声を上げことしかできなかった。
心臓が大きく拍動する。血の気が一気に引いていくような感覚。
祈里が、刺された?
誰に?
どうして?
「城川さんとルイちゃんが、救急車で一緒に病院に向かってくれてるから――」
荒木さんの声が遠くで響いている感覚。
「意識がないみたいで――」
そうだ、今日は城川と友上さんと一緒に家でお茶をするんだって言ってた。本当はバレンタインのチョコレートを一緒に準備するのだろう。祈里は隠しているつもりだったのかもしれないけれど、隠しかたが下手くそで……。
「日下部さん、聞いてる!?」
怒鳴るような荒木さんの声に、飛びかけていた思考が急速に引き戻される。
「すぐ、病院に向かいます!」
通話を切って、ジーンズのポケットにねじ込む。隣の椅子に掛けていたコートを引っ掴んで、席を立った。
目を丸くした桜井が、「何かあったんですか?」と俺の腕を掴んだ。
「祈里が刺された、すぐ病院に向かう」
「え……!? ちょ、どういうこと……」
桜井に丁寧に説明する時間もなければ、丁寧に何かを説明できるほど状況を理解できてもいなかった。
「とにかく、すぐ行かないと……」
会話が聞こえていたのだろう。状況を察知してくれた喫茶店のマスターが、「会計は後でいいから」と声を掛けてくれた。
そのとき、カウンター席の奥にあるテレビが、タイミングよく速報を鳴らした。
昼のバラエティ番組が流れている画面の上に白い文字が表示される。
『女優・羽柴祈里さんが何者かに路上で刺され、都内の病院に救急搬送。意識不明の重体』
『意識不明』。
その言葉が目に焼き付いて、離れない。
バラエティ番組の賑やかさと比例するような重さが圧し掛かるようだった。
運よくすぐに捕まえられたタクシーに乗り込む。行き先と「できるだけ急いでほしい」ということを運転手に伝える。運よく道は空いていて、タクシーはスムーズに病院までの道を進む。それでも心の中は焦っていて、もっとスピードを上げて欲しいと願ってしまう。
刺されて、意識がない。祈里は大丈夫なのだろうか。
病院についたとき、最悪の結末を伝えられたらどうしよう。
思考は絡まりそうなほど混乱しているのに、嫌な想像は妙にクリアに頭の中を巡る。
タクシーの中は暖房が効いているのに、体は一向に温かくならず、震えが止まらない。
「到着しましたよ」
運転手の声に顔を上げる。病院の正面玄関にタクシーは止められていた。後部座席のドアが開く。
「梓先輩、早く行ってください。会計、僕がやるんで」
隣に座っていた桜井に押し出される。ありがとうもろくに言えないまま、俺は病院の中へと駆け込んだ。
受付で祈里のことと自分の関係を話せば、救急救命センターがあるほうへと案内された。
廊下を奥へ奥へと進んでいく。外来から遠ざかっていけばいくほど、静かで消毒液の匂いが濃くなっていく。
「日下部さん、こっち」
壁際に置かれたグレイッシュブルーの長椅子。その前に立っていた荒木さんが、俺を手招いた。
長椅子には城川と友上さんが項垂れるように座っていた。
「荒木さん、祈里は……」
取り乱しそうになる心を抑えつけて、荒木さんに尋ねる。荒木さんは「まだ」と、重く閉じる銀色の扉の方へと視線を移した。
「バレンタインのチョコ……」
ぽつりと、城川が言葉を零すように口を開いた。耳を澄ませないと、取りこぼしてしまいそうなほど小さく、震えていた。
「バレンタインのチョコ、一緒に作ってたの。その途中で、買い忘れたものがあるのに気付いて、三人で近くの雑貨屋さんに行こうって」
「うん」
相槌を打った。城川は俯いたまま、続けた。
「マンションを出て、すぐ。祈里ちゃんに電話がかかってきたの。祈里ちゃん、私たちに先に行っててって言って……そのすぐあとに、ドサッて音がして、振り向いたら祈里ちゃん、お腹から血、流して倒れてて……」
城川はようやく顔を上げて俺を見た。
「血、止めなきゃ死んじゃうって思って。頑張って押さえてたんだけど、止まらなくて、」
城川の白いセーターの裾が赤く染まっている。手も洗ったあとなのだろうけれど、まだ少しだけ汚れていた。
「ごめんね、梓くん。ごめん」
「なんで城川が謝るんだよ」
「家を訪ねたとき、祈里ちゃんが変なこと言ってたの。エントランスに誰かいなかったかって」
「……え?」
「出かけたら、ダメだったんだよ。浮かれてたんだ、私。楽しくて、忘れてたの。祈里ちゃんを守れなくて、ごめん」
何度も謝りながら、城川は両手で顔を覆った。友上さんも、嗚咽をもらしながら涙を拭っている。
「祈里を、刺したのは……」
「……今、ちょうどニュースに出てる」
これ、と荒木さんはスマートフォンで動画を流してくれる。ニュース番組のライブ配信だ。
テロップには『速報 犯人逮捕。父親の犯行か』と大きな文字が出ている。
『速報です。女優の羽柴祈里さんが自宅マンション付近の路上で刺された事件で、犯人が逮捕されました。事件を目撃していた男性が警察へ通報、駆け付けた警察官が、刃物を持ったまま現場近くをうろつく男の身柄を確保し、警察署へと連行しました。男は羽柴さんの父親だと名乗っているとのことです。羽柴さんは、現在、都内の病院に緊急搬送されましたが、意識不明の重体です』
女性アナウンサーが深刻な声でそう原稿を読み上げた。眩暈がする。足がもつれて、焦る荒木さんに体を支えられた。
「……俺のせいだ」
俺が、父親を呼び出したりなんかしたから。だから、祈里を危険な目に遭わせてしまったんだ。