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第八十六話 不安と祈り(日下部梓視点)

 何時間が経ったころだろうか。


 祈里が運び込まれた救急救命室の、ずっと閉ざされたままだった銀色の扉が開いた。中から出てきた紺色の制服を身に纏った看護師は、俺たちに一礼をする。


「処置は終了しました。出血も止まっています。これから羽柴さんを集中治療室に移します」


 何とかひと段落ついたのだろう。ほんの少しだけ、俺たちから肩の力が抜けた。


「また、医師から容体とこれからのことをお話させていただきますね」


 失礼します、と言って看護師は俺たちの元を離れていった。

 入れ違うようにその後警察がやって来て、目撃者である城川と友上さんから話が聞きたいということだった。


「祈里のこと、またあとで報告する」


 不安そうな目で救急救命室のほうへ目をやる二人にそう伝える。しっかり話してきて、と言えば、城川たちは大きく頷いた。


 祈里の母親は入院中で、父親は容疑者。他に頼れる親戚などもいないことから、事務所の社長である荒木さんと、恋人である俺とで医師からの話を聞くことになった。


「刺された腹部からの出血は止まりました。幸いにも臓器には傷はついていません。ただ、今はまだ意識の回復はしていません」

「意識は戻りますか?」


 荒木さんが医師に尋ねる。医師は「そうですね……」と静かに言葉を選ぶようだった。


「出血がとても多かったので、どれほど脳にダメージがいっているか……。これから詳しく調べていくところです」

「……そうですか」


 そう相槌を打った荒木さんが俺を見る。「日下部さんは何か聞きたいことはある?」と首を傾げた。


「面会は、できるんですか?」

「今日は難しいですが、状態次第では明日から面会可能ですよ。そのときはぜひ声をかけてあげてください」


 医師からの説明は終わり、俺と荒木さんだけがその場に残される。荒木さんは小さく溜息を吐いた。


「祈里ちゃん、大丈夫だよね……?」


 荒木さんは声を震わせた。その質問の答えが誰にも分からないことを理解しているけれど、言わずにはいられないという感じだった。その気持ちは、俺も痛いほどよく分かる。


「大丈夫ですよ、祈里なら。強い子だって、知ってますから」


 そんな言葉は気休めにしかならないことも知っている。それでもそう言うしかなかったし、そう願うことしかできなかった。



「家まで送って行こうか?」

「いえ、俺は俺でタクシー捕まえて帰るので大丈夫です。荒木さんも気を付けて帰ってくださいね」

「うん。ありがとう。また何かあったら連絡するよ」


 日下部さんも気を付けて、と荒木さんと互いを気遣いあって別れた。


 時計を見れば、二十一時になろうとしているころだった。祈里が病院に運ばれてから、五時間以上も経っていたことを知る。


 外来の診察時間も終わり、待合所はすでに薄暗く、誰もいない。シン、と静まり返っている。表の入り口は閉まっていて、夜間専用の出入り口へと向かい、外に出た。


 すっかりと街は、夜の色に染まっていた。


 大きい通りに出て、なかなか捕まえられないタクシーをなんとか拾い、自宅マンションまで帰る。


 カードキーを通してエントランスを抜け、部屋の中に入った。部屋の中からは、ほのかに甘い香りが漂っている。


 リビングダイニングへと続く扉を開ければ、ダイニングテーブルの上には作りかけのお菓子がそのままの状態で残っていた。


 粗熱を取っていた途中なのだろう。カップケーキがトレイに入れられて置いてある。


 テンパリングされていたであろう溶かしたチョコレートは、ボウルの中で固まっていた。


 オーブンレンジの中には、焼き上がったドーナツが入ったままだ。


 ダイニングの椅子には、祈里がいつも使っているエプロンが掛けてある。


 数時間前まで、祈里がここにいたのだという跡。楽しそうに三人でお菓子を作っていたのだろう。目に浮かぶ。


 和やかな時間を感じれば感じるほど、同時に不安も胸に重く圧し掛かって来る。もし、祈里がこのまま目を覚ますことがなかったら……。


 もうこのまま、祈里に二度と会うことができなかったら……。


 気持ちを誤魔化すように、何か飲み物を飲もうと冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターが入ったペットボトルを取り出そうとして、先日、祈里と一緒に作ったトリュフが目に留まった。


 数は、あの日、ひとつ食べたあとから減っていない。


――梓くんに食べさせてもらうと、味が分かんない!


 二つ目を食べさせようとした俺に、紅潮した頬を膨らませて抗議する祈里を思い出す。


――あとでゆっくり味わって食べるから。


 そのあと、そう、優しく笑った顔も。


 冷蔵庫の扉を閉める余裕もないまま、足の力が抜けてその場にしゃがみ込む。後悔ばかりが頭を過って、胸を締め付ける。


 祈里の父親を刺激しない方法が、もっと他にあったんじゃないか。


 祈里を守るって決めたのに。一緒に幸せになろうって誓い合ったのに。それを台無しにしたのは俺自身なんじゃないか。


「祈里……」


 名前を呼んでも、祈里からの返事はない。


 頭の上で、冷蔵庫の閉め忘れ防止センサーがピーピーと高い音を鳴らしている。それが、静かな部屋の中に虚しく溶けて、消えていった。



 一睡もできないまま迎えた翌朝。


 スマートフォンには城川から、昨日の事情聴取についての報告が来ていた。犯人は、祈里の父親で間違いないようだった。


 こちらも昨日医師から受けた説明を、簡単に城川にメッセージで伝える。城川もあまり眠れなかったのだろうか。まだ時間は六時前だというのに、すぐに既読がついた。


 テレビをつける。朝の情報番組は、祈里のことで持ち切りだった。


「犯人は、羽柴茂、五十五歳。羽柴祈里さんの実の父親とのことです」

「羽柴茂は調べに対し、『借金の返済に追われていた』、『娘に肩代わりしてもらうつもりだったが、拒否された』、『娘が死んだら、自分に財産が入ると思って刺した』などと供述しているとのことで、傷害から殺人未遂に切り替えて引き続き捜査するとのことです』


 男性アナウンサーの声とともに、テレビ画面には祈里の父親の顔写真が映し出される。


 祈里の父親は、祈里のことを殺害するつもりだった。リモコンを持つ手が震える。


 どこまでも自分のことしか考えていない。まさか、借金返済のためにこんな手段にまで出るなんて考えてもいなかった。けれど、これまでの祈里に対する執着や行動を考えれば、ここまでエスカレートすることも想像できたはずだ。


 ソファーに座り込む。痛む頭を抱え、口から出るのは溜息ばかりだ。


 病院からも荒木さんからも連絡は入っていないようだ。祈里の様子に昨夜から大きな変化はないということなのだろう。悪化していないことには、安心してもいいのだろうか。荒木さんに対し気丈に「大丈夫ですよ」と言った俺も、ひとりになればこのザマだ。頭の中ではずっと、祈里は大丈夫だと信じたい自分と、最悪の事態を考えている自分がせめぎ合っている。


 祈るように、ホワイトカラーの小さなリングケースを開く。寝室から出るとき、チェストボックスから持ってきたものだ。


 華奢なリングにはエメラルドカットされたダイヤモンドが、小粒ながらも窓から差し込む朝陽を浴びて光っている。


 バレンタインの今日。祈里に渡す予定だった指輪だ。祈里の左手の薬指に合わせたサイズで作ってある。


 最初は祈里の誕生日に渡す予定だったのだけれど、そのときは結局、その指輪の意味が重すぎる気がして、勇気が出なかった。ピンキーリングを急遽購入し、それを渡してしまった。

けれど、あのときピンキーリングで喜んでくれた祈里の顔や、夜ベランダで「これからも、ずっと一緒にいようね」と頭を自分に預けてくれる祈里を見ていたら、早く自分の愛と覚悟を伝えようと決心がついた。一生、どんなことがあっても祈里から離れることはないと誓いを込めて……。


 この指輪が渡せる日が来ることを願うことしか、今の俺にはできない。それがもどかしく、虚しい。


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