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第八十七話 「おはよう」(日下部梓視点)

 病院に行けば、祈里の容態も安定しているとのことで面会できることになった。


 集中治療室への入り口前で受付を済ませ、体温測定をする。それを問題なくクリアすると、次は手洗いと手指の消毒を指示された。備え付けの洗面台でいつも以上に念入りに手を洗いペーパータオルで拭き上げてから、アルコールスプレーで消毒をした。


 これでようやく入室が許可され、治療室へと通される。看護師の後ろをついていき、空色のカーテンで仕切られたベッドをいくつも通りすぎる。看護師は一番奥へのベッドまで行くと「こちらです」と一度俺を見た。


 カーテンを薄く開けて、看護師はその中へと入っていく。


「羽柴さーん、日下部さんがいらっしゃいましたよ」


 中から看護師が優しく祈里に呼びかけている声が聴こえてくる。それに対しての返事はないようだ。


 心臓の鼓動が早まる。この中に祈里がいる。祈里に会うのは、昨日の昼前、俺が家を出るときが最後だ。ベッドの上にいる祈里は、どうなっているのだろう。


「どうぞ、入っていいですよ」


 仕切りの中に入ろうとしない俺を、看護師が優しい笑顔で入るように促す。自分でも分かるくらいぎこちなく頷き返して、一度大きく深呼吸をした。覚悟らしい覚悟も決まっていないけれど、中へ一歩足を踏み入れる。


 一定のリズムで刻まれる、心電図モニターの音が響いている。


 シーツの上に出された白い腕には点滴のチューブが繋がれていて、眠る祈里の鼻と口元を覆うようにクリアカラーの酸素マスクが装着されていた。


「今朝、脳のCTも撮りましたが、特に大きな問題はなさそうでしたよ」

「そうですか」

「あとは祈里さんの気力次第でしょうか。どうぞ、ゆっくりお話してあげてください」


 看護師は祈里の顔が見える位置に椅子を置いて、一礼するとカーテンを閉めて出て行った。


 足音が遠ざかっていく。


 またひとつ、俺は大きく息を吐き出した。戸惑う指で、そっと祈里の額の髪を分けるように撫でる。


「祈里」


 呼びかける声は、思うよりも小さく、掠れてしまった。


「もう昼になるよ」


 起きて、と、いつも彼女を起こすときのように声を掛けてみる。

 呼吸の音が聞こえる。それに合わせて、胸が動くのを見て、生きているのだと安心した。


「守ってやれなくて、ごめん」


 祈里の目元に触れる。深い眠りについているときのように反応はない。

 指を絡ませるように祈里の手を握れば、自分の体温よりも少しだけ低く、ひんやりとしていた。


「城川も友上さんも、荒木さんも心配してる。ファンも、すごく心配していたよ」


 実際、昨日、祈里の報道が出てから今もSNSのトレンドには、ずっと『羽柴祈里』という単語が表示されている。


 祈里のファンはもちろん、ドラマや映画好きなど、特別祈里のファンというわけではない人たちからも、心配する声と、回復を願う声が多数投稿されていた。


「俺も、また早く祈里と話したい。今日、伝えようと思っていたこともあったのに」


 コートのポケットからリングケースを取り出す。リングクッションから指輪を外して、祈里の左手の薬指にエメラルドカットされたダイヤモンドが光る指輪をそっと通した。


 サイズは間違っていなかったようで、こんなときにも関わらず安堵してしまった。


 指輪が光る薬指をそっと撫でる。小指には誕生日に渡したピンキーリングが鈍く光っていた。


「早く起きてくれないと、いつまでも伝えられない」


 模様替えをしたベッドの上で、「いつか」と言いかけた俺に、「何を言いかけたのか教えて」と迫る祈里とじゃれ合った日が懐かしい。


――「今はまだ言わないけど、ずっと祈里と一緒にいたいって思ってるから」

――「それって、もう全部言ってるみたいなものじゃない?」


 目を閉じれば、祈里の温もりまで思い出せそうなほど鮮明に、無邪気に笑う祈里の表情が浮かぶ。


 もう全部言っているみたいなものの、その「ずっと一緒にいたい」という気持ちを、形と言葉にして祈里に届けたい。


 一日でも、一時間でも、一分でも、一秒でも早く。


 もうこの手から、君が砂のように零れ落ちることがないように。この指輪が、二人をいつまでも繋いでいてくれるように。


 握った祈里の手を、自分の頬まで持っていく。


「俺は、ちゃんとここにいるから。早く戻って来て」


 願いと自分の力を分け与えるように、祈里の手を握る指に力を込める。規則正しい祈里の心臓の音が、電子音に変わって、ただ静かに響いていた。



 次の日も祈里に会いに行った。先に荒木さんが面会に来ていたようで、集中治療室の入り口で、これから帰るところだという荒木さんと鉢合あわせた。


「祈里は?」

「変わらずって感じかな。まだ意識は戻ってないよ」

「そうですか……」

「忙しくさせすぎたかなぁ。疲れが溜まってて、この機会にしっかり疲労回復してるのかも」


 冗談っぽく荒木さんが言う。それに対し、近くにいた看護師が同調するように「それはあり得るかもしれないですね」とクスクスと笑った。


「じゃあ、俺は帰るから。日下部さんも休めるときにしっかり休んで」

「はい。気を付けて」

「うん、また連絡する」


 じゃあ、と手を振る荒木さんは少しだけ疲れているようだった。無理もないだろう。彼にとっても事務所にとっても、祈里は特別な存在であると分かる。


 それでも気丈に振る舞っているところを見ると、自分も弱音を吐いていられないなと奮い立たされる。


 よし! と一度、気合を入れるために、自分の両頬を叩いた。今日はどんな風に祈里に声を掛けようか。彼女が早く目を覚ましたくなるような話題は何があるだろうか。


 集中治療室に入り、祈里のベッド脇へと入る。呼吸状態や酸素濃度も安定してきているとのことで、今日は酸素マスクをしていなかった。


 この状態になると、本当にただ眠っているだけのように見える。


「祈里、おはよう」


 髪を撫でながら呼びかける。指輪が光る左手を取って、温めるように両手で包んだ。


「今日、結構暑くて。春みたいな陽気。コートいらなかったかも」


 他愛もない話を、返事はないけれど紡いでいく。


「映画の宣伝も順調に進んでるよ。祈里のことがあってストップするかもって話があったけど、荒木さんが止めないでくださいって言ったみたい」


 久留生と城川が祈里の分の仕事も請け負って頑張ってる、と伝える。


「映画賞も取れるんじゃないかって噂が立ってる。早く回復して、その舞台に立てるようにしなくちゃ」


 そう教えたときだ。

 握る祈里の手が、キュっと俺の手を握り返すようにぴくりと動いた気がした。


「……祈里?」


 思わず椅子から立ち上がり、祈里の顔を覗き込む。俺の呼びかけに応えるように、祈里の瞼が微かに動いて、長い睫毛を震わせた。


「祈里、祈里!」


 夢の中からこっちの世界へ戻って来る道しるべになるように、祈里の肩を叩いて何度も呼びかける。


 薄い瞬きを繰り返して、祈里はゆっくりとその瞼を開けた。


 茶色がかった瞳は、微睡むように焦点はなかなか合わない。


「祈里……っ」


 ゆっくりと祈里の瞳が、俺の声を探すように揺れ動く。ようやく、その瞳に俺を捉えると、彼女は不思議そうな顔でその口元を緩ませた。


「あずさ……くん」


 掠れた声が、祈里の声が、俺の名前を紡ぐ。


「うん」


 彼女の呼びかけに応えるように頷く、俺の声は、情けないくらい震えていた。


 ゆっくりと伸ばされた祈里の手が俺の頬に触れて、その細い指で優しく撫でてくれる。


「どうして、泣いてるの……?」

「ごめん、嬉しくて。ごめん」


 服の袖で涙を拭う。


「おはよう、祈里」


 この笑顔は、うまく作れていただろうか。


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