広い草原。どこまでも続く、果てない青空。私は、何もない世界にいた。
何もない世界で、私は、中学生のころの私と手を繋いでいた。
大きな風が吹いて、私たちの髪をなびかせる。通り抜ける風に誘われるように、中学生のころの私は後ろを振り向いた。
「早く戻ったほうがいいんじゃない?」
「あなたは? ひとりぼっちになってしまわない?」
中学生のころの私は、一瞬目を丸く見開いて、それから可笑しそうに肩を揺らして笑った。
「ひとりぼっちじゃないよ。だって、私は、あなただし。ひとりじゃない」
そう言って、私を抱きしめる。私より、まだ少しだけ背の低い彼女を抱きしめ返して、その髪を撫でた。
「日下部くんが呼んでるよ」
「うん」
「早く戻ってあげて。心配してる」
「うん」
「大丈夫。もう、ひとりぼっちじゃないよ」
体を離した彼女は、「早く行って」と、優しく私の背中を押し出した。
柔らかな陽だまりの中、梓くんの声が響いている。
梓くん、待っていて。今すぐ、あなたに会いに行くから。梓くんの声が導いてくれる方へと、私は駆け出した。何もない場所だけれど、どこに行けばいいかは、梓くんの声が教えてくれていると確信があった。
「祈里……っ」
柔らかな日差し。ゆっくりと瞼を開ければ、目の前に梓くんの顔があった。
微睡む視界の中、その頬に手を伸ばした。涙で濡れる頬を、そっと指で拭う。
「どうして、泣いてるの……?」
「ごめん、嬉しくて。ごめん」
梓くんはそう言って、服の袖で目元をゴシゴシと拭う。
「おはよう、祈里」
涙で揺れる声で、梓くんはそう優しく笑った。頬を撫でる私の手に、梓くんの手が重ねられる。その体温は、なんて愛おしいのだろう。
そのあと、看護師さんとお医者さんが私のベッドまでやって来て、名前や年齢の確認、それからどこか不調はないかなどの問診が行われた。
今のところ大きな問題はないようで、後日詳しくまた検査をすることになった。
意識が戻ったことにより、翌日には集中治療室から一般病棟へと移されることになった。面会も大きな制限はなくなり、昼過ぎにさっそく真希乃ちゃんとルイちゃん、久留生さんと荒木さんが来てくれた。
「よかった」と泣きじゃくる真希乃ちゃんとルイちゃんと抱きしめ合う。
「ごめんね、怖い目に遭わせて」
「羽柴ちゃんが死んじゃったらどうしようかと思った」
ルイちゃんは小さな子のように、目元と鼻の先を真っ赤にしてボロボロと、その大きな瞳から涙を流した。
「救急車呼んでくれたの、ルイちゃんなんでしょう? ありがとう。真希乃ちゃんも。真希乃ちゃんが止血頑張ってくれてたから助かったって、お医者さんに教えてもらったよ」
二人の頬に手を添える。二人は、「うん」と声を詰まらせながら頷いてくれて、顔を寄せ合って私たちは笑った。
「まだ傷も癒えてないし、祈里ちゃんが疲れてもいけないから、そろそろ引き上げようか」
荒木さんが私たちにそっと声をかける。
「えー、まだもうちょっと祈里ちゃんと一緒にいたいよ」
真希乃ちゃんは不満そうに唇を尖らせて、荒木さんを振り返った。
「真希乃も仕事があるだろ、このあと」
久留生さんが腕を組んで、溜息まじりに言う。
「ちょっとくらい遅れても大丈夫でしょ」
それに対して、「ダメです」と言う、私と荒木さんと久留生さんの声が重なって、個室の病室に響いた。祈里ちゃんまで、と真希乃ちゃんは私を恨めしそうな目で見る。
「またいつでも来てよ。待ってるから」
「……うん」
まだ不満は残るといった感じだが、真希乃ちゃんは渋々頷く。ルイちゃんもこれからモデルの仕事があるようで、マネージャーさんが病院前まで迎えに来たようだった。
「また来るね」
真希乃ちゃんとルイちゃんが手を振って、病室の扉を開ける。
「祈里ちゃんも、ゆっくり回復して。無理しなくていいから」
優しい荒木さんに私は「うん」と頷いた。
「お大事に」
そう言って、久留生さんも三人のあとに続いて病室を出ようとしたところで、私は久留生さんだけを小声で呼び止めた。三人はそれに気付かなかったようで、先に病室を出て行ってしまった。
足音が遠ざかったのを確認して、久留生さんに耳を寄せるようにお願いする。
「真希乃ちゃんに、チョコレート渡せた?」
内緒話のように尋ねれば、久留生さんは「えっ」と驚いた顔をする。
「渡せてない。こんなタイミングで渡せるわけないでしょ」
「えっ」今度は私のほうが驚いてしまう。
「真希乃の親友が生死を彷徨ってるのに、渡せるわけないじゃん。俺だって、すげぇ心配だったし」
「ああ……そっか。そうだよね、ごめん」
「本当だよ」
久留生さんは難しい顔でそう言ったあとに、すぐに表情を崩して「でも、よかった」と言った。
「ちゃんと目、覚ましてくれて」
「うん」
「今回はチョコ、渡せなかったけど。また羽柴さんが退院したら、今度は自分で作ってみる」
「あ……じゃあ、そのときは、五人で一緒に作らない? 私と久留生さん、それから梓くんと、真希乃ちゃんとルイちゃんで」
「いいね、それも楽しそう」
決まり、と私たちは掌を重ねてタッチする。
その直後、バタバタと足音が迫ってきていると思ったら、ガラッと扉が開いた。真希乃ちゃんが「ここにいた!」と息を切らしている。
「栄斗、何してんの! 迷子になったのかと思って焦ったんだから」
「真希乃じゃないんだから」
「は!? どういう意味?」
「だってお前、この前、テレビ局で――」
「あ、その話はなし!」
真希乃ちゃんは慌てた様子で久留生さんの言葉を止める。久留生さんは、ぷっと吹き出すと、私に向かって「じゃあ改めて。お大事に」と手を振って、真希乃ちゃんに病室を出るよう促す。
「えっ、ちょっと。待ってよ、栄斗! 祈里ちゃん、またね」
「うん、またね」
賑やかな嵐のようだった。入れ違うように、梓くんが病室に入って来た。
途中、真希乃ちゃんたちとすれ違ったのだろう。
「元気だな」
と、二人が歩いて行ったほうを見て、梓くんは思わず笑いが吹き出してしまったという感じだった。
「元気いっぱいもらったよ」
「それなら良かった。窓、少し開ける?」
「うん、お願い」
梓くんは病室の窓を少しだけ開けてくれる。今日は温かいようで、春の訪れを感じさせるような温かい風が、薄いカーテンを柔らかく揺らした。
梓くんはそのまま、病室にある洗面台のほうへ移動する。栓をして水が張られた洗面ボウルの中には、春らしいカラーの花束が浸けてあった。梓くんが午前中に持ってきたものだ。花瓶がなくて、お昼を食べに行くついでに花瓶を買いに行くと言っていたから、枯れないように水に入れていた。
梓くんは買ってきたガラス花瓶に水を入れると、丁寧に花束を生けた。
そしてそれを、ベッドサイドのチェストの上に置いてくれる。
「綺麗。もう春が来たみたい」
「病室だとなかなか季節を感じにくいからさ」
「これは、なんて名前のお花? ふわふわしてて綺麗」
スカートのフリルのような、蝶が羽根を広げているような花が連なるように咲いている。優しい紫色のもの、薄いピンクのもの、それから白色。可憐さにうっとりしてしまう。
「スイートピー。花言葉が、門出とか永遠の喜び、とか。花屋さんの人に薦められて」
「そうなんだ。すごく良い香り」
風に乗って、甘い香りがふわりと漂ってくる。それを胸いっぱいに感じたくて、目を閉じて深く息を吸った。それだけで幸せになれる気がする。
不意に、唇に柔らかいものが当たる。目を開ければ、目の前に梓くんの顔があって驚いた。
梓くんが私の体の横に手をつくから、ベッドが小さく軋む。
「祈里が、可愛らしく目を閉じるから」
「ちょっと、からかわないで」
「からかってないよ」
梓くんはそう言って、私の左手を取って、まるでお伽噺の王子様のように手の甲にキスを落とす。知らない間についていた、シルバーの指輪。ダイヤモンドがキラキラと陽射しを反射させている。そういえば、この指輪の意味を、私はまだ訊けていなかった。