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第八十九話 病室の花

 目が覚めてから数日後。何度か刑事さんが私の病室を訪ねて来た。


 お父さんとのこれまでの関係や事件当日のことを数日に分けて詳しく聞かれた。幼少期からのことや借金のこと、それから付き纏いなどがあったことを話す。


 事件当日、マンションのインターホンを鳴らしたのはお父さんだということも刑事さんに教えてもらった。


 私を殺害するつもりで、在宅を確認しに来ていたらしい。それから、私がマンションから出るタイミングを、物陰に隠れてじっと待っていたそうだ。


 お父さんがインターホンを鳴らしたとき、マンションのコンシェルジュはちょうど席を外していて、お父さんの存在には気付いていなかったとのことだった。事件後、マンション内の防犯カメラを確認したところ、インターホンのモニターに映らないようにしているお父さんの姿が映っていたらしい。


「ご協力ありがとうございました」


刑事さん二人が私に頭を下げる。


「こちらこそ、父を捕まえてくださって、ありがとうございます」


 私も同じように、ベッドに座ったまま頭を下げた。


 今回のことでお父さんがどれくらいの罪に問われることになるのかは分からない。けれど、これであの人が私たちに近付くことはなくなるだろう。梓くんとも話し合って、マンションも引っ越すことに決めた。今のところよりもセキュリティを万全にする、と梓くんは張り切って物件探しをしている。


 先日は荒木さんと、私にボディーガードを付けるとかなんとかと盛り上がっていて、さすがにそれはやりすぎだと止めた。


 思い出して、思わず苦笑いが零れる。二人の愛情が嬉しくもあるのだけれど。


 刑事さんたちが去っていき、病室の外で待機していてくれた梓くんが入って来るのを待っていたけれど、どこか出かけてしまったのだろうか。梓くんはしばらく経っても戻って来なかった。スマートフォンにもメッセージは来ていないようだ。


 コンコン、と2回、ドアをノックする音が響く。どうぞ、と入室を促せば、看護師さんが検温のために入って来た。


「あの、日下部さんって、どこ行ったか分かりますか?」


 もしかしたら看護師さんに何か言付けをして出かけて行ったのかもしれないと尋ねてみる。


「日下部さんは……ええっと、」


 看護師さんは不自然に言葉を濁す。彼女は後ろを振り向いて、私のカルテを見ていた先輩の看護師さんに助けを求めるように視線を送った。


「いいんじゃない? もう教えてあげても」

「え? 教えるって?」


 先輩看護師さんの言葉の意味が分からず、私は首を傾げる。私のバイタルを取っていた看護師さんは力強く頷くと、


「今、車椅子、持ってきます!」


 と、足早に病室を出て行った。


 それからあれよあれよという間に、私は車椅子に乗せられる。一体どこへ連れて行かれてしまうのだろうか。


「えっと、一体何がどうなって……?」

「まぁまぁ、行ってみれば分かるから」


 先輩の看護師さんはキビキビと私を乗せた車椅子を押す。そのまま、エレベーターに乗り込んだ。今私がいる病棟は三階で、二回上の五階のボタンが押される。


 五階の病棟は、私もよく知っている。何度も足を運んだことがある。私のお母さんがいる病棟だ。


 でも一体、なぜそこへ私たちは向かっているのだろう。


 数十秒もしないうちに、エレベーターは五階に到着する。『五階です』というアナウンスが響いて、扉が開いた。


「あれ、祈里さん!?」


 五階の病棟担当の看護師さんが私を見て、驚いたように目を丸くさせる。それから、あわあわとして、私の車椅子を押す看護師さんに「今はちょっと……!」と小声で何かを伝えている。


「いいの、いいの。それを見せに来たんだから」


 私の車椅子を押しながら看護師さんは笑っていて、私は頭にハテナマークを浮かべながら「それって?」と首を傾げることしかできない。


 車椅子はずんずんと廊下を進んでいく。そうして、なぜかお母さんの病室の前で止められた。


「あの……」


 私は、梓くんはどこにいるのか尋ねただけなのに、なぜお母さんの病室まで来たのか。理解ができず、看護師さんを軽く振り向こうとしたときだ。お母さんの病室から、楽しそうな笑い声が漏れて聞こえた。


「お母さんの声……」


 それから、何を話しているのかまでは聞こえないが、微かに男性の低い声が聴こえてくる。


(まさか……)


 看護師さんが、お母さんの病室の扉をノックする。どうぞ、と中からお母さんの声がした。扉がゆっくりと開かれる。


 薄暗い廊下と違って、病室は大きな窓からいっぱいの陽の光を取り込んでいるようで、とても明るい。


「あら、祈里」


 お母さんが私を呼ぶ。


 そのお母さんの奥。ベッドサイドに置かれたチェストの上、花瓶にお花を生けている人と目が合った。


 彼は、私を見て、みるみるうちに切れ長の目を大きく見開いた。


「……梓くん」


 花瓶の中には、私の病室に飾られたスイートピーと同じスイートピーが飾られている。


 そういうことだったのか、と、今までつかえていたものが胸にスッと落ちていく感覚がする。


 梓くんだったんだ。


 お母さんの病室に、私の知らない間に、いつも綺麗な花を飾ってくれていたのは。


 時々、男性と楽しそうに話をしている姿を見ると看護師さんは言っていた。その相手は、梓くんだったんだ。


「祈里」

「……」


 自分の病室に戻って来た。私は、ベッドのリクライニングを上げて、梓くんに背を向けて窓の外を眺めていた。


「……ごめん。怒ってる、よな……」

「怒ってない!」


 反射的に振り向いてしまった。刺された傷が微かに傷んで、「うっ」と小さく唸る。「大丈夫?」と梓くんは痛みを逃がすように私の腕を摩ってくれた。


「怒ってない、よ。ごめん、ずっと黙り込んでて。なんて言っていいのか、分からなくて」

「うん」

「お母さんにお花を贈ってくれている人とか、話し相手になってくれてる人がいることは知っていたの。でもそれが、まさか梓くんだったなんて、驚いちゃって。その人が梓くんだったことはすごく嬉しいんだけど、教えてくれなかったことに対して複雑というか……」


 梓くんは静かに私の話を聞いて、「うん」と小さく相槌を打った。


「いつ切り出そうか、ずっと悩んでて。タイミングを見失ってた。本当にごめん」

「すごく前から、お母さんのお見舞いに来てくれてるよね? それこそ、私たちが再会する前から」

「……うん。俺の母親、たまにここの小児病棟に絵本の読み聞かせに来るんだ。そのときに、祈里のお母さんが運ばれてきたらしい。それを俺に教えてくれて」


 だから、入院したときから知ってる、と梓くんは気まずそうに語尾を細くして、目を逸らした。


「心配でお見舞いに行ったんだ。そしたら、祈里のお母さんすごく喜んでくれて。それが俺も嬉しくて、何度も足を運ぶようになった。でも、その当時、祈里は俺に会いたくないだろうから、絶対顔を合わすことがないように気を付けてたんだけど……」

「それが今日、こんな形でバレちゃったんだ。でも、こんなときにお母さんのお見舞いに行く梓くんも、私はなかなかのチャレンジャーだと思うけど」

「花瓶の水、変えてなかったと思って」


 梓くんがおずおずと視線を上げる。私と目が合うと、梓くんは気まずそうに笑った。その子犬のような表情に思わず吹き出してしまう。


「でも、調度良い頃合いだったのかも」


 梓くんは吹っ切れたように笑うと「看護師さんにも感謝しないと」と言って、私の隣にそっと腰を下ろした。微かにベッドのマットレスが沈む。


「今、ちょうど祈里のお母さんにも話をしてきたところだったんだ」


 梓くんが私の左手を取る。それから、銀色の指輪を一度撫でた。


「祈里」


 梓くんの真剣で、真っ直ぐな瞳に、心臓が跳ねる。


「はい」


 その声は、上擦った。


「俺と、結婚して欲しい」


 薄く開いた窓から入り込んだ風が、私と梓くんの髪を揺らしていった。

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