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第九十話 プロポーズ

「今、言うの?」


 梓くんからの突然のプロポーズに、戸惑いながらも吹き出してしまった。


 病院の、個室とはいえ病室で。


 私は病院着で、ときどきお腹の傷が痛む。腕には点滴まで挿されているし、髪もボサボサ。メイクすらしていない。


 梓くんも、かしこまった格好ではなくて、少し春らしさを感じる薄手のセーターに黒のジーンズを履いている。髪型もいつも通り、前髪がちょっと長い。


「言えなかった後悔だけはしたくないんだよ。言えるときに言っておきたくて」


 これでも遅くなってしまったほうなんだけれど、と梓くんは苦笑いを浮かべる。私が死んでしまうのではないかと不安になったという気持ちは、目覚めてすぐに聞いていたけれど。まさかプロポーズまで考えていたなんて。


 左手にはめられていた指輪の意味と、指輪のデザインを考えれば、予想はできていたかもしれない。


 けれど、まさかこんなタイミングで。


「それで……返事は?」


 梓くんがそっと私の顔を窺い見る。どこか不安そうに、可愛らしく眉が下がっていた。


 そんな心配しなくても大丈夫なのに。まさか病院でプロポーズされるなんて思ってもいなくて、驚いてしまっただけだから。


 梓くんの両頬を両手で包むように触れる。私の指先が冷たかったのだろうか。梓くんはぴくりと肩を震わせた。


 そっと私から唇を重ねる。触れるだけの幼いキスは、なんだか照れる。


「これからも、ずっと一緒にいようね」

「それって……」

「うん。私も、梓くんと結婚したい」


 梓くんの表情がパッと明るくなる。そうかと思えば、ガバッと勢いよく抱きしめられて、腕の力が強くて苦しい。


「ちょ、ちょっと梓くん。苦し……っ」

「ご、ごめん。嬉しくて……!」


 大丈夫? と今度は壊れ物でも扱うかのように、優しく梓くんは体を離す。


 その様子がおかしくておかしくて笑ってしまう。笑うたびに傷に響いて痛いし、笑い過ぎて目に涙が滲んでくる。


「ちょっと落ち着いてよ」


 こんなに表情を顔や態度に出してくれる梓くんは、再会した当初からは考えられない。あんなにも冷たい目で私を見ていたのに。


 それが今や、優しい目で私を見つめてくれて、抱き締めてくれて、愛してくれる。ずっと一緒にいたいと言ってくれて、同じ幸せに向かって手を繋いでくれる。


 ああ、なんて幸せなんだろう。


 梓くんと目が合う。薄っすらと頬を赤らめた梓くんは、いつもよりもぎこちなく私に口づけた。緊張、していたのかな。


「ありがとう、祈里」

「うん。梓くんも。ありがとう」


 額をくっつけて笑い合う。


「祈里のお母さんに報告しないと」

「荒木さんにもね。婚約しましたって言わないと」

「荒木さん、許してくれるかな?」

「相手が梓くんなら大丈夫だよ」


 笑い合って、指を絡める。梓くんの骨ばった長い指と大きな掌が、私の手をすっぽりと包み込んでくれるようだ。梓くんの体温が心地いい。


「梓くんはロマンチックなプロポーズしたい人だと思ってた」


 ナイトクルーズとかホテルのディナーとか、と言えば、梓くんは笑う。


「俺は今日も充分ロマンチックだと思うけど?」


 もうだいぶ調子を取り戻しているようだった。


「病室だよ? 消毒液の匂いに包まれて、私なんて髪もボサボサ」

「それがいいんだよ」

「そうかな」

「そうだよ」


 梓くんがそう言うなら、そんなような気がしてくる。


 梓くんの肩に頭を預ける。柔らかく、時間が流れていく。左手を天井に向けて伸ばす。シルバーの薬指の指輪と、ゴールドの小指の指輪が、私たちを祝福するように輝きを瞬かせた。




 五階の談話室。


 お母さんと梓くん、それから私でテーブルを囲む。


 梓くんが買って来てくれた温かいお茶のペットボトルを両手で包んだ。じんわりと体が温まっていく。


「プロポーズ、上手く行ったのね」


 おめでとう、とお母さんは梓くんと両手を取り合って喜んでいる。お母さんがしゃべっている姿も、こんなにも明るい表情も久しぶりに見た。


 私がお見舞いに来ているときは、いつも眠っているから。


「梓くんのこと、教えてくれたらよかったのに」


 不満を感じた子どものように唇が尖る。


「怒らないで、祈里。梓くんと話し合って、内緒にしていたのよ」


 あなたたち、中学生のころ色々あったみたいだから、と母は眉を下げた。


 話を聞けば、私が来たときにいつも眠っていたのは、梓くんのことを私に話さないようにするための方法だったらしい。いつも寝ていたわけではないと知って、驚いてしまう。お見舞いに来る頻度は低かったとはいえ、一体何年間、お母さんはそんなことを続けていたのだろう。口が堅いというべきか、なんというべきか。


「祈里がお仕事を頑張っていることも、梓くんとお付き合いを始めたことも、祈里からだけじゃなくて、梓くんからも教えてもらっていたの」


 これでようやく私も恋バナに参加できるわね! と、お母さんは嬉しそうに目を輝かせた。


「恋バナって……」


 呆れたように笑ってしまいそうになってしまったけれど、梓くんもお母さんも幸せそうで、「まぁいいか」と思えてきて、私もつられて口角が緩んだ。


「お母さんの恋バナも教えてよ」

「お母さんね、梓くんにお願いして弁護士さんを紹介してもらったの。お父さんとちゃんと離婚をして、今度こそあの人とは縁を切るから」

「……ええ!?」


 お母さんと梓くんの顔を交互に見る。梓くんは、「黙っててごめん」と気まずそうに頬を掻いた。


「祈里がこんなことになるまで、一歩踏み出せなくてごめんなさい」


 お母さんはそう言って、私に頭を下げた。テーブルの上に置かれたお母さんの細い手が震えている。


 私はそっとその手に、自分の手を重ねた。

 私のことは、お母さんのせいじゃない。そう伝えたかった。


「お母さんは悪くないよ。お母さん、頑張ったね」


 お母さんがゆっくりと顔を上げる。その目には、今にも零れ落ちてしまいそうなくらい涙が溜まっていた。


「祈里も、頑張ったね」


 お母さんのその言葉が、私の心に落ちて、柔らかな風になる。中学生のころの私が、その言葉に嬉しそうに微笑んだような気がした。「うん」と頷き返した。


「そんなことよりもさ、もっと楽しい恋バナないの?」


 そう話を切り替えるように尋ねれば、母は目尻の涙を拭って「そうねぇ」と笑った。


「恋ってわけじゃないんだけど、お母さん、最近推しがいるのよ」

「推し? 誰? 芸能人?」

「この人よ、この人」


 母はそう言って、スマートフォンを取り出すと私たちにロック画面を見せた。


 私と梓くんは頭を突き合わせて、そのディスプレイを覗き込んで、「あ!」とそろって声をあげてしまった。


 デジタル表記の時計盤の下。雑誌でファッションモデルをやったときの写真だろう。


「久留生さん!」


 お母さんのスマートフォンには、アンニュイな表情でポーズを決める久留生さんがロック画面の画像として設定されていた。


「そう! 栄斗くん! 恰好いいのよねー」



 少女のようにお母さんはキャッと両手で頬を覆う。


「今度、久留生さん紹介しようか?」

「ダメよ! そんなの! お母さんは、一人のただのファンとして栄斗くんを応援しているんだから」

「そっか、分かった」

「あ、でも。今度荒木さんに聞いておいてくれる? サイン会とか握手会とか、やる機会ありますか?って」


 そういうのは一度参加してみたいわ、とお母さんがズイっと私に顔を近付けた。その表情はあまりにも真剣みを帯びていて、私も梓くんも顔を見合わせて思わず笑ってしまった。


「うん、聞いとくね」


 任せて、と頷き返す。


 嬉しい、とはしゃぐ母に、私の心も踊る。


 こんな日が来るなんて想像もしていなかった。なんて、幸せで、温かい時間なんだろう。



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