傷の経過も良く、予定していたよりも早く退院できることになった。
退院の日はたまたま、梓くんはどうしても外せない仕事が入っているようで、付き添いは荒木さんがしてくれるそうだ。
「荷物はこれで全部?」
「うん、それで全部だよ」
「もう会計も済ませてあるから、行こうか」
荒木さんが着替えなどの荷物を持ってくれて、担当医のお医者さんや看護師さんたちにお礼を言って病室を出る。
病院の裏口側に荒木さんが車を用意してくれていて、大きな騒ぎにならないように気を付けながらそちらへ向かった。
一階の裏口近く。車椅子に乗ったお母さんが看護師さんと一緒に待っていてくれていた。お母さんは荒木さんに一度深く頭を下げた。
「祈里が大変お世話になっております。なかなかご挨拶に伺うことができず、本当に申し訳ありません」
「そんな、そんな。祈里ちゃんのおかげで、僕も事務所の他のタレントたちも毎日楽しい生活を送っていますよ」
「そう言っていただけると嬉しいわ」
お母さんはホッと胸を撫で下ろす仕草をする。それから、ふわりと微笑んだ。
それから、「祈里」と私のほうへ向き直る。
「梓くんにもよろしくお伝えしてね」
「うん、伝えとく」
「私も早く退院しなくちゃね」
楽しみがいっぱいだもの、とお母さんは私の手を一度握った。そうだね、と私も頷く。
「あのことも、荒木さんに聞いておいてね」
そっと内緒話をするようにヒソヒソと話す母に吹き出してしまう。久留生さんの握手会の件か、と思い出して、私は笑いながら頷いた。
「元気でね、祈里」
「もう。またすぐにお見舞いに来るよ」
「そうは言ったって、退院したら忙しくなるわよ」
人気女優なんだから、とお母さんに言われると変な感じだ。「ねぇ、荒木さん」とお母さんは荒木さんに同意を求めるように言う。荒木さんはそれに対して、「そうですね」と笑顔で頷いてから、冗談っぽく私の腕を肘で小突いた。
「休んだ分の穴はしっかり埋めてもらわないと」
「そうだね。しっかり休んだ分、働かないと。私の場所がなくなっちゃう」
肩を竦めてみせれば、お母さんは「新しい映画も見るからね!」と張り切るように両手で小さく拳を握った。
「楽しみにしていて」とお母さんに伝えて、私たちはようやっと病院を後にした。荒木さんの車の後部座席に乗り込む。もう長いこと乗っていないような気がして、カーフレグランスのホワイトリリーの香りに懐かしさを感じる。
「実家に帰ってきたような気分」と荒木さんに言えば、「もっと良い例えはないの?」と笑われてしまった。
車が走り出す。病院の駐車場を出て、街中を進んでいく。
いつの間にか桜が咲く季節になっていて、上着もいらないくらいだ。街ゆく人たちは春らしい涼しげな服装になっている。
赤信号で車が停まる。ビルの広告ビジョンに、私たちが出演した映画の宣伝が流れているのが見えた。そういえば、もうすぐ公開日だったはずだ。私も、今からでも何か宣伝に協力できれば良いのだけれど。
「ファンの人に、退院報告しなきゃね」
荒木さんがルームミラー越しに私を見て言った。
「そうだね」
どんな形で報告するのがいいだろうか、と荒木さんと話し合う。事務所からコメントを出すのも堅苦しいし、心配かけたファンのみんなを楽しませてあげられるいい方法はないだろうかと考えを巡らせる。
そんな中、ふと、『報告』繋がりで、荒木さんに報告しなければいけないことがあったと、頭の中でタスクが浮上する。
とても大切なことで、もしそういうことがあったときはすぐに報告して、と荒木さんに言われていたことだ。
「ねぇ、荒木さん」
青信号に変わり、車は再び走り出した。
入院期間中に梓くんがひとりで引っ越しを進めてくれていて、今日はこれから私も新居へと向かうことになっている。
いつもは走らない道が新鮮だ。
「うん?」
どうしたの、とハンドルを握る荒木さんは前を見たまま、私に耳だけを傾けてくれる。
「驚かないで聞いてくれる?」
「うん」
この報告をするのは、少しだけ緊張する。小さく息を吐いて、気持ちを落ち着かせる。
「梓くんと結婚することになったよ」
そっと、静かな口調を心掛けて言葉を紡げば、驚かないでと先に言っていたのに、荒木さんはいつものように「ええ!?」と大きな声を上げた。後ろを振り向こうとするから、ちゃんと前を見て! と私まで慌ててしまう。
「そういうのは、運転中じゃないときに言ってくれる!?」
「ごめんなさい。でもすぐに荒木さんに報告しなくちゃって思って」
「いや確かに俺も、すぐに報告してとは言ってたけどさ」
もー、と言いながら、荒木さんはハンドルを左に切る。近くのコンビニの駐車場にそのまま車を駐車した。
シフトレバーをパーキングに入れて、サイドブレーキを引き、エンジンも切ったことを丁寧に確認して、荒木さんはようやく私を振り向いた。
「落ち着いてるときに言ってくれないと、ちゃんと目を見て『おめでとう』って言ってあげられないでしょ」
「……結婚、反対じゃない?」
「反対するわけないでしょ。相手は日下部さんで信頼できているし、祈里ちゃんは確かに女優っていう特殊な仕事はしているけれど、ひとりの人間なんだから」
俺に反対する権利なんてないよ、と荒木さんは笑った。
「おめでとう、祈里ちゃん」
「ありがとうございます」
二人で丁寧に頭を下げ合う。顔を上げるタイミングが荒木さんと同時で、目が合って、このかしこまった雰囲気に堪え切れず二人で吹き出した。
「いつ籍を入れるとか、結婚式の話は?」
「まだ何にも。プロポーズしてもらって、それを受けただけだから」
「え、もしかして病室でプロポーズ?」
「うん、そのもしかして」
「意外だなぁ。日下部さん、ナイトクルーズとか夜景観覧ヘリとか、そういうのをプロポーズの場所として選ぶタイプかと思ってた」
荒木さんが私と全く同じことを言うから、「だよね!」と思わず身を乗り出してしまう。荒木さんはそんな私を笑って、「まぁ、でも」と言葉を続けた。
「それだけ祈里ちゃんを失うことが怖かったんだと思うよ」
そう言う、荒木さんの目はとても優しい。私も荒木さんのほうへ乗り出してしまった体を戻して、「うん」と頷いた。
「これからは心配かけないようにしないとね、大切な人なんだから」
「そうだね。気を付けます」
「うん」
じゃあ、帰ろうか。と荒木さんは車のキーを回してエンジンをかける。
車はゆっくりと動き出した。
膝の上に置いていたバッグの中で、スマートフォンがメッセージを受信して震える。バッグを開けて、スマートフォンを取りディスプレイを見れば、噂の梓くんからメッセージが来ていた。
『仕事が終わったから、今から帰る』とのことだった。私もそれに、今病院を出て荒木さんに車で新居まで送ってもらっていることを伝える。
新しいマンションはどんなところだろう。すべて梓くんに任せていたし、入院していたこともあって私はまだ一度も中を見たことがない。
梓くん曰く、前のマンションとそこまで大きな差はないそうだ。
「祈里ちゃん、なんだか楽しそうだね」
「そうかな?」
顔に出ていたなんて恥ずかしい。窓の外を見るフリをして、ルームミラーから見えないように顔を隠した。
もうすぐに梓くんに会えるのだと思うと胸が弾む。思う存分、人目を気にせず梓くんを抱きしめて、触れることができる。
新しい家が、どんなところだっていい。前のマンションよりも狭くても、安っぽくても私は構わない。
梓くんとなら、どんな場所だって天国だと思うから。