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第九十二話 新しい家

 私と荒木さんはあんぐりと口を開いていた。


 一番上まで見上げられないんじゃないかと思うほどの高層マンション。

 梓くんは『たいして変わっていない』なんて言っていたけれど、確実にワンランク上のマンションになっている気がする。


 なんせ、エントランスの重厚そうな扉前に警備員さんが立っているくらいなのだから。


「あ、荒木さん、一緒に入ろう?」

「いやいや、俺、部外者だから。祈里ちゃん、ひとりで行きな」


 祈里ちゃんは住人なんだから、と荒木さんに背中を押される。そんな殺生な、と荒木さんに嘆いたけれど、荒木さんは「じゃあ、お疲れ!」、「日下部さんによろしく!」と早口で捲し立て、車に乗り込んでしまった。よっぽど居心地が悪かったのかもしれない。


 ショルダーバッグの紐をギュッと握り込む。ごくん、と唾を飲み込んだ。


 警備員さんに止められやしないかとドキドキしていれば、「おかえりなさいませ」と頭を下げられてしまい、「はい!!」と上擦った返事をしてしまう。


 一度もこのマンションには帰ってきたことがないのに、このマンションの住人だと認識されている。その管理の徹底ぶりに感動すると同時に、セキュリティの高さを重視してこのマンションを選んだのであろう梓くんの『祈里を守る』という気持ちの本気度に震えた。


 エントランスには高級そうなソファーや観葉植物が置いてあり、まるでホテルのロビーのようだ。


 奥にはコンシェルジュの方がカウンターに立っていて、挨拶を交わす。


 事前に梓くんにもらっていたカードキーを使ってオートロックの扉を抜け、教えてもらっていた部屋番号を確認して、エレベーターに乗り込んだ。


 上層階でエレベーターが止まる。落ち着いた色味の照明で照らされた内廊下を、部屋番号を確認しながら進んでいく。


 どうやら一番角の部屋のようだ。ダークブラウンの玄関扉の前。カードキーをかざして玄関のロックを解除する。


「お、お邪魔します……」


 恐る恐る扉を開けて、そっと中を窺うように声をかける。白が眩しい廊下の先、リビングのほうから物音がして、数秒後に私を出迎えてくれた梓くんは、私の顔を見てホッと表情を崩したあとに笑った。


「なんでお邪魔します?」

「あ……そうか。私の家、だもんね」

「そうだよ」

「全然実感ないけど」


 ふふ、と思わず笑いが零れた。このマンションに到着してから、ずっと不思議な感覚がしてフワフワ、そわそわしてしまっている。


 何だか変な感じ、と梓くんに言おうとしたとき。ふわりと梓くんの香りに包まれる。


 洗濯洗剤のシャボンの香りと、梓くんの甘い香りが混ざって、未だに勝手に心臓がうるさくなる。それと同時に、心が満たされて、落ち着いていく感覚。


「おかえり、祈里」

「うん。ただいま、梓くん」


 今度は自然と口からその言葉が出た。


 帰って来たんだ。梓くんが待っていてくれる場所に。梓くんの傍に。


 私を抱きしめてくれる梓くんの背中に私も腕を回す。梓くんの広い背中は両腕でも完全に包み込むはできないけれど、力いっぱい抱きしめた。もう決して離れてしまうことがないように。



 部屋の中には、荷物が入れられた段ボールがいくつか残ってはいるものの、インテリアはほとんど揃っていて、荷物も整理されていた。


 忙しい中で梓くんがとても頑張ってくれたことがよく分かった。


「何から何まで本当にありがとう」

「全然いいよ。そもそも引っ越しも俺が言い出したことだし」


 疲れてるだろうから座って、と梓くんにソファーへと促される。


 その言葉に甘えて座れば、キッチンのほうから「祈里はなに飲みたい?」と質問が飛んできた。


「俺のオススメはコーヒーかな」

「あ、じゃあコーヒーでお願い」

「了解」


 前の家からあるコーヒーマシンが動き出す音がする。そのうちに、コーヒーの香ばしい苦い香りが部屋の中に漂い始めた。


 良い香りだと、一息つく。


 リビングには光を目一杯取り込むための大きな掃き出し窓がある。爽やかな春の青空が広がっているのが見えた。


「もう桜も咲き出してるし、今度、花見にでも行く?」

「あ、それなら、真希乃ちゃんたちも一緒が楽しそうじゃない?」

「いいね」


 梓くんはソファーの前に置かれたテーブルの前まで来ると、トレイからコーヒーの入ったマグカップをテーブルの上に並べた。


「今度、私からみんなに予定とか聞いてみるよ」

「うん、お願い。祈里の快気祝いも兼ねてパーッと楽しもうよ。俺からは桜井に連絡しとく」

「うん」


「楽しみだな」と続ければ「俺も」と梓くんから返事が返ってくる。その何気ない幸せを噛み締めながら、「コーヒーいただきます」と両手を合わせた。


 口の中から鼻を抜けていくコーヒーの香り高い苦み。


「おいしい」

「それは良かった」

「梓くんが淹れてくれるコーヒー、私大好きだな」

「コーヒーマシンにお礼を言わないとだなぁ」


 くすくすと梓くんは肩を揺らして笑う。


 そんな梓くんとふと目が合う。梓くんは、一瞬瞳を左右に揺らした。どこか、緊張しているような面持ち。どうしたの? と首を傾げたとき、梓くんが自分の後ろに隠し持つようにしていた、綺麗にラッピングされた小さな箱を私へと差し出した。


「もうバレンタインもホワイトデーも過ぎちゃったけど。祈里に作り方教えてもらったのを思い出しながら、自分ひとりでトリュフ作ってみたんだ」


 梓くんからその箱を受け取る。リボンを解いて蓋を開ければ、綺麗なトリュフチョコレートが並んでいた。


 そういえば、あの日。あのまま梓くんのチョコを食べることができずにいたんだった。


「嬉しい、梓くん。ありがとう」


 刺されて、薄れていく意識の中、食べられなかったことを後悔していたことも思い出す。こうやって、また梓くんにプレゼントしてもらえたこともそうだけれど、何より再び梓くんと生きて会うことができたことを実感して、目の奥が熱くなる。


「祈里、どうして泣くの?」


 梓くんが私の顔を覗き込んで、そっと目元を優しく拭ってくれる。その手指の温もりが心地いい。


「ごめんね、すごく嬉しかったの」


 さっそく食べてもいい? と笑ってみせる。「いいよ」と頷いてくれた梓くんは、私がトリュフを掴むよりも早く、箱の中からひとつ摘まみあげた。


「はい、祈里。あーん」

「えっ、自分で食べられるよ!?」

「いいから、いいから。はい、あーん」


 口元に運ばれてくるトリュフチョコレート。早くしないと溶けちゃう、と梓くんがイタズラっ子のように笑っている。


 こうなった梓くんのことは止められそうにないと、最近気づいた。


 ためらいながら口を開く。そこにチョコレートが忍び込んでくる。


 生チョコの柔らかな感触。ココアパウダーの苦みと、チョコレートの甘みが広がっていく。けれどやっぱり、チョコレートの甘みが「あーん」によってさらに増している気がして、眩暈がしそうだ。梓くんの些細な仕草でうるさくなるような心臓のせいで、落ち着いて味わうこともできない。


「……次からは自分で食べます」


 赤くなった顔を隠したくて俯く。そして、濃い甘さを逃がしたくてコーヒーをごくごくと飲んだ。


「甘すぎた?」


 心配そうに梓くんが眉を下げて私を見ている。


「あ……っ、梓くんが甘すぎるの!」


梓くんがコーヒーをオススメした理由がよく分かった。コーヒーの苦さで、この甘すぎて、退院したばかりの私には刺激的すぎる空気が中和されていく気がする。


 可愛い、と口角を上げる梓くんの余裕が恨めしい。 



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