みんなで花見をしてから一週間後。
私がお父さんに刺されたことで流れてしまったバレンタインをやり直そうと、真希乃ちゃんが提案してくれた。
場所は以前と同じように、私と梓くんの家。
あのときは久留生さんと梓くん組、ルイちゃんと真希乃ちゃん組と日にちを別けて作業をしたけれど、今回はみんな一緒のほうが楽しそうだとみんなの意見が一致して、同日に集まることになった。
「ちょっと、栄斗! ちゃんとボウル押さえてて!」
「真希乃の混ぜ方が荒すぎるんだよ、もっと繊細にやれ」
真希乃ちゃんと久留生さんの、賑やかな声がダイニングに響いている。
私の隣で溶かしたチョコレートと卵を混ぜ合わせていたルイちゃんが、「本当仲良しだよね」と笑った。言い合いをしているようにしか見えないけれど、それも二人の関係性があるからこそのじゃれ合いなのだろうと私も思う。
「ルイちゃんも想多くんのこと呼んでも良かったのに」
「誘ってみたんだけど、今日、家族と出かける用事があるみたい。それにアタシもサプライズに渡したかったし」
ルイちゃんが肩を竦めるように可愛らしく微笑んだ。
「そっか。じゃあ、とびっきり美味しいの作らないとだね」
「そうだね!」
頑張るぞ! と、意気込むルイちゃんは可愛らしい。部屋の中に、濃厚なチョコレートの香りが広がっていく。
深くその香りを吸い込んで堪能する。チョコレートの甘い香りは甘酸っぱく私たちの心を揺らしてくれるような気がした。
チョコレート作りは無事に楽しく終えることができた。
ブラウニーの出来も上々で、私もホッと胸を撫で下ろした。その夜には、ルイちゃんが想多くんに渡せたと連絡してくれた。
そのメッセージに続いて、トーク画面には、可愛らしくラッピングされたブラウニーを持つ想多くんとのツーショットが表示される。
幸せそうな二人に、私の心までときめいてしまって、スマートフォンを眺めながらついニヤニヤと口元が緩む。
そんな私を見た梓くんが「楽しそうだね」と笑った。
そんな遅くなってしまったバレンタインが終わった数日後。
荒木さんとスケジュールの打ち合わせをするためにコスモプロダクションの事務所を訪れた私は、首を傾げてしまった。
いつも元気いっぱいな真希乃ちゃんが、静かに大人しくソファーに座っている。
「真希乃ちゃん? おはよう」
「……」
声を掛けて見ても、ぽーっとその視線は上の空だ。
真希乃ちゃんの顔の前で「おーい」と手をヒラヒラと振ってみせるが、反応がない。
「真希乃ちゃん、なんだか朝からずっとぼんやりしてるんだよね」
どうしちゃったのかな、と給湯室からお茶を持って出てきた荒木さんが心配そうに言った。
「風邪引いてるとか……?」
真希乃ちゃんの額に掌を当てて、自分の体温を比べてみる。それほど大きな差はなくて、おそらく平熱だろう。熱はなさそうで安心だけれど……。
事務所の扉が開く音がする。続けて、「おはようございます」という久留生さんの声が事務所内に響いた。
「栄斗くん、おはよう」
もう少ししたら打ち合わせ始めるから、と荒木さんが久留生さんに返す。私も「おはよう」と久留生さんに挨拶をしようとしたときだ。
いきなり腕を強く掴まれる。驚いて振り向けば、真っ赤な顔をした真希乃ちゃんと目が合った。
「真希乃ちゃん、ど、どうしたの?」
「祈里ちゃん、ちょっと一緒に来て」
間もなく荒木さんとの打ち合わせが始まるというのに、立ち上がった真希乃ちゃんに強引に腕を引かれる。
止める間もないまま事務所を出て行く私たちの背中に、荒木さんの「ちょっとどこ行くの!?」という慌てた声がぶつかった。
「ま、真希乃ちゃん。どこ行くの?」
事務所が入っているビルを抜けて、真希乃ちゃんは私の手を引いたままズンズンと歩く。その背中に問いかけてみるけれど返事はない。
事務所の近くにある人気のない公園に入って、ベンチに座ると、真希乃ちゃんはようやく私の手を離してくれた。
「真希乃ちゃん……」
私も隣に座って、そっと声を掛けてみる。その途端、真希乃ちゃんは両手で顔を覆った。
「どんな顔すればいいのか、分かんないの」
震える声で真希乃ちゃんが言う。
「え?」
その言葉の意味が分からず聞き返した。
「栄斗に、どんな顔すればいいのか分かんない!」
顔を覆っていた手を外して、私を見た真希乃ちゃんの表情は、今にも泣き出してしまいそうなくらい眉が下がっていた。
「……久留生さんと、何かあったの?」
言われてみれば、私が事務所に来たときにはすでに上の空状態だった真希乃ちゃんが、大きな反応を見せたのは久留生さんがやって来たタイミングだった。
「えっと」
真希乃ちゃんは一瞬言葉を詰まらせる。それから、「あのね」と静かに話し出した。手持無沙汰なのか、それとも気まずさがあるのか、真希乃ちゃんは自分のももの上で両手の指を絡ませたりと落ち着かない様子だ。
「みんなでチョコレート作った日の帰り、私、栄斗と一緒に帰ったの」
「うん。久留生さんが送っていくって言ってたもんね」
チョコレート作りをした日、解散するころには外はすっかりと暗くなっていた。
ルイちゃんはマネージャーさんが迎えに来てくれて、真希乃ちゃんのことは久留生さんが家まで送り届けると言って、帰っていったのを覚えていた。
「その帰り道にね……あの……栄斗からチョコレートもらったの。一緒に作ったブラウニー」
私は思わず、ハッとして自分の口元を手で覆った。久留生さんがついに真希乃ちゃんに対し、一歩踏み出したのだと気付いてしまったからだ。
「それで、その……」
真希乃ちゃんは言葉をまごつかせる。ほっそりとした真希乃ちゃんは首元まで赤くして、アーモンド型の綺麗な瞳を右へ左へ大きく揺らした。
そして、落ち着きのなかった手をギュッと握り締めると、
「栄斗に、好きだって、言われたの」
最後のほうは消え入ってしまいそうなほどの小さな声で、真希乃ちゃんはそう言った。
心の中では、「よくやった、久留生さん!」と彼の勇気を褒め称えているけれど、真希乃ちゃんは複雑な感情を抱いているかもしれないから顔には出さず、平静を装って相槌を打った。
「赤ちゃんのときからずっと一緒に育ってきて、栄斗のことは家族みたいに思っていたから、そんな風に考えたことなくて……」
特殊な環境で共に育ってきた二人だからこそ、真希乃ちゃんが久留生さんを映すチャンネルを変えることは難しいのかもしれない。
真希乃ちゃんの気持も、一歩踏み出した久留生さんの想いも想像することはできるから、「そっか」と頷くことしかできなかった。私が何か軽率に言葉をかけることはしてはいけないような気がする。
真希乃ちゃんが俯く。
さわさわと柔らかな春風が私たちの髪を揺らしていく。
長い沈黙のあと、真希乃ちゃんが「祈里ちゃん」と静かに私を呼んだ。「うん?」と返事をして、真希乃ちゃんを見る。
今もまだ薄っすらと頬を染めた真希乃ちゃんと目が合った。
「ずっと家族だと、思ってたの。でも、好きだって言われた日の夜から、なんか……おかしいんだ。栄斗のことばっかり頭に浮かんで、胸がドキドキして苦しい」
だから、どんな顔をして会ったらいいのか分からなかったの、と真希乃ちゃんはまた両手で顔を覆い隠してしまった。
「え……えええ!?」
驚きのあまり、ベンチから勢いよく立ち上がってしまった。私の大きな声に驚いて、集まっていた鳩がバサバサと飛びだっていく。
急展開とはまさにこのことを言うのだろう。
荒木さんが私たちを呼び戻すために何度も電話をかけてきているようで、ポケットの中でスマートフォンが震えている。
穏やかな春の日、真希乃ちゃんと久留生さんの関係が大きく前進したのだった。