久留生さんが真希乃ちゃんに告白してから、ギクシャクしていた二人の関係も日を追うごとに解消されつつあった。
そして、ギクシャクがなくなっていくのと同時に、二人の距離は今までとは違う雰囲気で近付いているようだった。
仕事の合間。真希乃ちゃんと一緒にカフェでランチをしようという話になった。仕事の打ち合わせで外に出ていた梓くんも近くにいるというので、せっかくだからと落ち合って三人でお店に入った。
ランチメニューからパスタセットを選ぶ。先にテーブルに運ばれてきたアイスティーは、綺麗な黄金色の中に氷が浮かんでいて涼しげだ。
もう半袖でも良いくらい今日は暑くて、喉を通る冷たいアイスティーはとても美味しい。
「梓くんと祈里ちゃんは、いつ婚姻届けを出すとかもう決めてるの?」
真希乃ちゃんはアイスコーヒーにガムシロップを入れて、黒いマドラーでぐるぐるとかき混ぜる。カランカランと氷がぶつかる音がした。
「夏ごろには入れたいって話はしてる。ただ、祈里の仕事の関係もあるし、荒木さんとも相談しながら決めたいかなって」
「そうなんだ」
真希乃ちゃんが相槌を打ったタイミングで、大学生くらいの若いウェイターさんが、三人分のパスタを掌と腕に器用に載せて運んできた。
私はボロネーゼ、梓くんはクリームソースパスタ、真希乃ちゃんはアスパラとベーコンのペペロンチーノ。
みんなが取りやすいように、カトラリーのセットをテーブルの中央に置く。
「いただきます」と手を合わせて、フォークでボロネーゼをくるくると巻いた。
その視界の端で、真希乃ちゃんがアスパラをフォークでつついているのが見えた。ツンツンとするだけで、口に運ぶ様子はない。アスパラ、苦手だったのかな? と首を傾げたとき、真希乃ちゃんがひとつ呼吸を置いて、顔を上げた。
「祈里ちゃん、梓くん」
「うん?」
クリームソースパスタを頬張っていた梓くんが、くぐもった声で返事をする。
「あのね、明日、栄斗とデートすることになった」
「わぁ! ついに!」
思わず、ついにって言ってしまって、慌てて口を閉じた。梓くんはどこまで何を知っているのだろうか。一緒にトリュフを作ったし、久留生さんが真希乃ちゃんを好きなことは知っているだろうけれど……。
ちらりと横目で梓くんの表情を窺い見れば、梓くんはふんわりと目元を和らげた。
「俺は、久留生、良いやつだと思うよ」
その表情と言葉から、梓くんは二人が今どんな関係であるかも全部知っているのだろう。
「うん」
頷いた真希乃ちゃんを見る。
「だから、栄斗の気持に、ちゃんと応えようと思ってる」
「それって、つまり……」
「そう。栄斗と、付き合う……つもり」
ごにょごにょと気まずそうに声にしたあと、真希乃ちゃんは「えへへ」と照れ笑いを浮かべた。
「なんだか、恥ずかしいね。こんな報告」
赤くなった顔を冷ますように、真希乃ちゃんは自分の手で頬を煽ぐ。
「久留生となら幸せになれるんじゃないかな」
「そうだと良いけど」
梓くんの言葉に、真希乃ちゃんは肩を竦めてみせた。それから、「はぁ」と大きく息を吐き出した。緊張で強張った体を和らげるような深呼吸だった。
そして、もう一度噛みしめるように、「そうだったらいいな」と、これからの未来に期待するような微笑みで呟いた。
窓際の席。柔らかな日差しが差し込む。それに照らされた真希乃ちゃんは、今まで見たことがないくらい優しい表情で、とても幸せそうだった。
ランチを食べ終わって、会計を済ませてお店を出る。
「祈里と城川は、まだ仕事?」
「うん、これからスタジオに戻るよ」
主演は真希乃ちゃんで、私は友情出演で一話だけ。今日はその撮影だった。
梓くんは? と尋ねれば、梓くんはこれから自宅に戻って仕事をすると言った。
「じゃあ、また帰るときに連絡するね」
「ああ。遅くなるようだったら連絡して、迎えに行く」
「分かった」
「梓くん、またね」
真希乃ちゃんとともに梓くんに手を振って別れようとしたとき、鞄の中でスマートフォンが着信を告げて鳴った。
「あれ、桜井さん?」
鞄から出したスマートフォンのディスプレイに表示された桜井さんの名前に驚く。梓くんと交際しだしてから、私のほうに桜井さんが連絡してくることは滅多になかった。珍しいね、とまだ傍にいた梓くんに言いながら、通話に出る。
「あ、よかった! 出てくれて!」
私の「もしもし」に被せるように、興奮気味な桜井さんの声が響く。隣にいた真希乃ちゃんが「声がスピーカーから漏れてる」と笑った。
「桜井さん、どうしたんですか?」
「祈里さん、大変なんです!」
大変、という桜井さんの言葉に私も、それが聴こえていた梓くんと真希乃ちゃんも首を傾げた。
「驚かずに聞いてくださいよ……」
「勿体ぶってないで、さっさと話せ」
梓くんが私のスマートフォンの顔を寄せてそう言えば、「梓先輩いるんですか?」と驚いた桜井さんの声が響く。梓くんはそれにクスクスと笑う。桜井さんは「ちゃんと聞いててくださいよ」と言って、仕切り直すように咳払いをした。梓くんは、またスピーカーから漏れ出る桜井さんの声に耳を澄ませる。
「実は……祈里さんが主演を務めてくださった僕の映画、『OneRoom』が日本映画賞にノミネートされました!!」
桜井さんひとりの「ワー!」という歓声と、拍手が続いた。
私は、目を見開いたまま梓くんと真希乃ちゃんを見る。二人も驚いているようで、私たちは驚きのあまり呆然としてしまった。
「え、日本映画賞って、あの!?」
先に我に返ったのは真希乃ちゃんだった。先ほどの梓くんと同じように、私が耳に当てたままのスマートフォンに顔を寄せる。
「城川さんもいらっしゃったんですね。そうです、あの映画賞です……!」
日本映画賞と言えば、毎年この時期に前年度の優秀な映画作品を決める大きな映画賞だ。まさかそれに、自分が主演を務めた作品がノミネートされるなんて想像もしていなかった。
「ど、どうしよう。手が震える……!」
興奮と緊張が混ざって、手が震えてしまう。スマートフォンを持っていないほうの手の震えを梓くんに見せれば、ギュッと強く梓くんが握ってくれた。
「おめでとう、桜井。祈里も、おめでとう」
「ありがとう」
桜井さんからも「ありがとうございます!」と喜びに満ちた声が返ってくる。
「あの、荒木さんはもう知ってるの?」
「いえ、荒木さんにはまだお伝えしていないです。一番に祈里さんに伝えたかったので。この後すぐ、荒木さんにも僕のほうから連絡させていただきますね!」
「よろしくお願いします」
「受賞式とか、たぶん祈里さんにも出席してもらうことになるので、また連絡しますね」
じゃあ、と急ぐように桜井さんは言って、通話は切られた。
隣から飛びつくように真希乃ちゃんが私の体を抱きしめてくれる。
「おめでとう、祈里ちゃん」
「ありがとう、真希乃ちゃん」
「授賞式かぁ。ドレスも買わないとだね」
楽しみ、という真希乃ちゃんは、まるで自分のことのような喜びようだ。こんなにも一緒に喜んでくれるなんて、本当に感謝しかない。もう一度、真希乃ちゃんに「ありがとう」と伝えて、二人で手を取り合い、笑い合った。
「そういえば、桜井さんに祈里ちゃんのこと紹介したのって梓くんなんだよね?」
不意に真希乃ちゃんが私たちに尋ねる。
「うん、そうだよ。桜井さんが主演探してるときに、梓くんに紹介してもらったの」
「つまり、今回の映画賞ノミネートに梓くんも貢献してるってことだと思うんだよね。だから、二人で一緒にレッドカーペット歩いちゃえば!?」
「ええ!?」
「もうそこで結婚の報告もしちゃえば!?」
「そ、そんな簡単に! ダメだよ! ね、梓くん……!」
「……確かに、良い考えかもしれない」
ふむ、と梓くんが腕を組んで、真剣に考え込む表情をするから、もうツッコミが追いつかない。
「梓くんも納得しないで……!」
私たちの賑やかな声が、春の陽だまりの下、街の喧騒に溶け込んでいく。