カシャロの街が藍色に染まる。空気にはどこからか夕食の匂いが漂って、空腹の腹を刺激する。家々の明かりが、不思議とゾランを安心させた。
(良い匂い。シチューかな。何だか今日は、優しいものを食べたい気分だ)
仕事終わりには、どこかで夕飯を食べて帰ることの多いゾランだが、今日はゆっくりしたい気分だった。『クジラの寝床亭』で慣れた味わいの夕食を食べて、暖かいワインを飲んで眠ろうと、家路を急ぐ。
ダイナーの入り口を開いて中へ入る。店内にはミラが作る料理の匂いが溢れていて、実家に帰ってきたような、そんな安心感があった。時間帯のせいか、店内は客で賑わっている。常連客が酒や夕食を楽しむのを眺めながら、ゾランはカウンター席の方へと移動した。
「いらっしゃいませ」
聞き慣れない声に、ゾランはドキリとして顔を上げた。いつもなら、ミラの声で「お帰りなさい」と言ってくれるのに、今日は聞いたことのない若い男の声がした。
「え?」
カウンターの向こうでエプロンを着けた青年が立っているのを見て、ゾランは目を丸くした。歳の頃はゾランと同じか、一つか二つ年下だろう。青空のような綺麗な色の瞳と、藁色の髪をした青年だった。
青年はぎこちない手つきでグラスを拭きながら、ニコニコと笑顔を向ける。
「えっと……?」
ゾランが戸惑っていると、奥のキッチンから丁度、ミラが顔を出した。
「アロイス、料理上がったから、持っていって――。あらゾラン。お帰りなさい」
「ゾラン?」
「た、ただいま、ミラ」
ゾランと呼んだのに、青年が反応する。パッと顔を明るくして、てを差し出してきた。
「あなたがゾランさんですか! お噂はかねがね!」
明るい笑顔でそう言われ、ゾランは戸惑ってぎこちない笑みを返す。
「は、はあ……」
「ゾラン、彼はアロイスよ。最近、プライベートに時間を割きたくなってね。人を雇うことにしたの」
長年、ダイナーを一人で切り盛りしていたミラだったが、恋人マルガリータとの時間を増やしたことで、これまでの生活を見直すことにしたらしい。彼女にとってダイナーは生き甲斐だったが、人生のパートナーとの時間も大事だと、あらためて思ったそうだ。
その切っ掛けが、自分たちの旅行記なのだと思うと、なんだかくすぐったい気持ちになる。ゾランたちの行動が、ミラにポジティブな影響を与えたことは、素直に嬉しかった。
「あっ、そうなんだ? 新しい店員か」
アロイスと呼ばれた青年は、『クジラの寝床亭』の新しいスタッフらしい。笑顔を浮かべたまま、手を差し出している。
ゾランは今度こそ笑みを浮かべ、アロイスの手を握り返した。
「初めましてアロイス。俺は、このダイナーの二階で下宿してる、ゾランって言うんだ。ゾランで良いよ」
「よろしくゾラン。元々ここで働いていて、今は出版の仕事をしてるって聞いてるよ。すごく素敵だ」
「そっ、そうかな」
ストレートに褒められ、気恥ずかしくなって頬を染める。アロイスは見たまま、好青年という印象だった。
「それでね、ゾラン。あなたの向かいの部屋、物置きにしていたけど、アロイスが使うことになったの。仲良くしてね」
「あ、そうなんだ。よろしくね」
アロイスも、ゾランと同じように『クジラの寝床亭』の下宿人になったらしい。昔のゾランと、同じ立場だ。
これまでゾランが一人で使っていたシャワーなどは共有になる。アパートメントなどと違って、隣人というよりも同じ家に暮らす、新しい家族に近い。
夕食を注文し、ゾランは仕事の合間のアロイスと、二三言葉を交わした。アロイスは人懐こい雰囲気で、まだ不馴れだからか動作はゆっくりだが、非常に丁寧な仕事ぶりだ。ミラとの相性も、悪くなさそうである。
馴染みの店の店員であり、一つ屋根の下で暮らす隣人。新しい出逢いは、ゾランをワクワクさせた。
(考えてみれば、同年代の友人なんて、エセライン以外では初めてかも)
カシャロに上京してきてから、同年代の友人は居ない。クレイヨン出版社の仲間たちや、ミラやマルコなどは、いずれもゾランより歳上だ。
ゾランはその夜、遅くまでダイナーで過ごしたのだった。