グラゾンへの出発は、週末になった。ゾランたちはそれまでに必要な情報を集め、現地に行ったときに不足がないように準備を行った。グラゾンのある山間は小さな集落が点在しているだけで、あまり大きな街はない。乗合馬車でカシャロから二日ほどかけて移動し、それから馬車を借りて約一日で到着する予定だ。これらの旅程はすべて、サンテ商会の方で用意してくれるらしい。ゾランたちは身一つで行けば良いだけだ。
通常は乗り合い馬車を使うが、今回はサンテ商会の馬車である。カシャロからグラゾンまでは食料品や生活物資を、グラゾンからはウイスキーを週に一度運んでいるそうだ。それに載せてもらう形だ。
打ち合わせのために会談したサンテ商会の商会長は、ホテル事業がうまく行けば、馬車の運航事業も始めようかと笑っていた。
「紙は不足がないようにしないと……。カメラも持って、錬金インクは足りるかな……?」
写真に焼き付けるための特殊なインクが、残り半分を切っていた。あと数十枚は印刷出来るだろうが、足りるか足りないかは微妙なところだ。
「うーん。錬金術ギルドに行って来た方が良いかな……?」
首を傾げていると、エセラインが「そう言えば」と口にする。ゾランはテーブルに拡げた荷物から、視線をエセラインの方へ向ける。次の旅行記の準備期間、多くの時間を、ゾランとエセラインはクレイヨン出版社の事務所で行っている。今日も、事務所で荷物のチェック作業を行っていたところだ。
「明日から二日くらい、『ガウリロ戦士団』の遠征についていくことになったんだ」
「ええっ、急だね?」
「指名依頼があったらしくて。専属依頼してるのに指名依頼の記事を書かないわけにはいかないから……」
『ガウリロ戦士団』は、弱小出版社であるクレイヨン出版社と専属契約を結んでいる冒険者パーティだ。ゾランも、鉱山のゴブリン退治の時には同行し、今でも時々訪れる冒険者ギルドで、逢えば声をかける間柄だ。エセラインの担当記事でもあり、クレイヨン出版社では度々一面を取るため、人気急上昇中の冒険者でもある。
「そっか、ガウリロたち、指名依頼が来るようになったんだ」
「ああ。うちの記事が、貢献出来てると良いんだがな」
「きっと出来てるよ! エセラインの書く記事のガウリロたち、カッコいいもん」
ゾランの言葉に、エセラインの頬が僅かに緩む。その様子に、ゾランはドキリとして思わず目を逸らした。「さ、さて、錬金インクは……」と誤魔化すようにして、エセラインの様子をチラリと見る。
以前は、このエセラインの微細な表情の違いを、感じ取れなかった気がする。いつの間にか、些細な表情を感じ取れるようになっていることに気づいて、それだけ彼の顔を良く眺めるようになっていたことに気づかされた。
「っ、と……、その、グラゾン行きは、間に合いそうなの?」
先ほどの話では、明日から二日ほどとのことだった。週末の出発まで、ギリギリのような気がする。
「ああ。それなんだが、出発は一緒に行けないかも知れない。あとから追いかける形になると思う」
「ええっ? そうなの?」
「中継地のボヌールあたりで合流できると思う」
「そっか……」
当日は朝からずっと一緒なのだと思っていたので、正直拍子抜けしてしまった。だが、途中から合流できるのであれば、それで良いだろう。
「サンテ商会の馬車は護衛が付くらしいから、道中は安全だと思う」
「あ、うん」
最近も襲撃されたばかりなのに、安全のことに対する意識が抜けていて、ゾランは思わず恥ずかしくなった。危ない目に遭ってもなんとなく大丈夫だと想ってしまうのは、いつもエセラインが近くに居たからだ。だが、今回はそのエセラインが居ない。ほんの僅かな時間ではあるが。
「まあ、いざとなったら社長に貰った魔法も『海鳴り』もあるし、大丈夫」
「本当は、実戦練習しておきたかったんだけどな……」
「まあ、時間もないし」
ゾランも一応、冒険者登録はしてあるので、モンスター討伐の実戦を行っても良かったのだが、なかなか機会がなかった。魔法の使い方は聞いたものの、まだ一度も使ったことがない。もっとも、今回は護衛付きの馬車なので、たとえモンスターや野党が襲って来たとしても、ゾランが戦うことにはならないはずだ。
「エセラインは、結構タイトなスケジュールになるけど、大丈夫?」
『ガウリロ戦士団』の仕事についていき、さらにその足で旅行記の為の取材に行くのだ。かなり無理をするのではないかと、少し心配になる。さらに言えば、ガウリロたちの旅が安全とは限らない。指名依頼は通常、少し難しい依頼のはずだ。厄介な内容であれば、同行者のエセラインだって危険かも知れない。
「俺は大丈夫だよ。俺より、ゾランのほうが心配だ」
「何でだよ」
「何でって」
エセラインの手が、頬に触れる。ドキリとして、エセラインを見上げた。翡翠色の瞳が揺れる。
「っ……、エセライン……っ?」
エセラインの菫色の瞳が、ゾランを捕らえる。ドクドクと心臓が早鐘を打つ。
「解るだろ」
それだけ言って、エセラインの手が離れていく。なんとなく物寂しくて、視線でエセラインの指を追った。
「わ、解んないよ」
触れられた箇所が、まだ熱い。ゾランの返事に、エセラインは困ったように笑うだけだった。