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第19話 変わる関係



「お世話になりました。すごく楽しかったです」


「いえいえ。トラブルもありましたが、楽しんで頂けたのなら良かったです」


 支配人と握手を交わし、ゾランは改めてホテルを見上げた。一時遭難するなどのトラブルはあったものの、グラゾンの旅は良いものだった。山のキリリとした冴えわたる空気や、森の息吹を感じさせるウイスキーの風味。骨まで温まるような温泉と、贅を尽くした部屋と料理の数々。ホテルがオープンすれば、一大リゾートになるのは間違いないだろう。


「記事、楽しみにしておりますね」


「はい。良い記事にします」


 別れの挨拶を済ませて、馬車に乗り込む。行きは一人だったが、帰りはエセラインと一緒だ。荷物を奥に詰め込み、備え付けられた椅子に腰かける。その横に、エセラインが座った。


 見送りに来た従業員たちに手を振る。御者が手綱を引いて、ゆっくりと馬車が動き出す。


「もっと居たかったな~」


「すっかり、温泉気に入ってたもんな」


 エセラインの言葉に、「だって気持ち良いんだもん」と言いながらゾランはもう一度ホテルを振り返った。従業員たちはまだ手を振っている。


「料理も部屋も良かったし、旅行ってやっぱり良いよね」


「ああ。しっかり記事にして、この良さを伝えないとな」


 穏やかに微笑みながらそう言う横顔を、ゾランはチラリと盗み見た。ほわんと、胸が熱くなる。この旅行で、エセラインに対するゾランの立ち位置も、大きく変わってしまった。


「また、来たいな……」


 ボソリと呟いた言葉に、エセラインがゾランの手を握って来る。ドクン、心臓が跳ねた。横目にエセラインを見れば、何でもないような顔をして、澄ましている。


(なんだよ。澄ましちゃって)


 ゾランが手を握り返すと、エセラインの耳がほんのりと赤くなった。それを見て口元が緩みそうになる。エセラインはそれを見つけて、「なんだよ」と唇を尖らせた。エセラインのそう言う顔は珍しいと、思わずプッと吹き出してしまう。


 エセラインは指を組みなおしてぎゅうっとゾランの指を握ると、背もたれに体重を預けた。


「また来よう。今度は、仕事抜きで」


 その言葉に、ゾランは小さく頷いた。




 ◆   ◆   ◆




「ルカとテオドレにはウイスキー買って来たよ。社長にはアップルワイン」


「おおー」


「気が利きますね」


 土産の酒を取り出して、クレイヨン出版社の社員たちに配り歩く。醸造所で作られている質の高い酒は、どれも薫り高く美味だった。酒が好きなルカとテオドレはもちろん、得意でないラドヴァンにもお土産で買って来たのだ。このほかにも、ミラにあげる分も買って来たので、帰りは大荷物になってしまった。


 テオドレは今すぐ開けそうな勢いで瓶を抱きかかえ、ルカに呆れた顔をされている。


「大変な目に遭ったって聞いたけど、大丈夫だったの?」


 ラドヴァンの心配そうな顔に、ゾランは姿勢を正した。


「はい。老朽化した屋敷の崩落に巻き込まれてしまいましたが、幸い怪我もなく帰ってこられました。ラウカが居合わせまして……。随分、助けられました」


「そうだったんだね。ラウカには、僕の方からもお礼を言っておくよ。エセラインも、嵐が直撃したとか。二人ともお疲れ様。今日明日くらいはルカも融通を聞かせてくれると思うから、出張報告と清算は慌てなくて良いからね」


「ええ。賄賂も貰いましたからね」


 ルカがウイスキー片手にウインクする。


「ありがとうございます。馬車の旅ですっかり疲れたので、そうさせて貰いますね」


 帰って早々仕事とはならなかったことに、ホッとしてゾランは自分の机に腰かけた。今日は簡単に記事をまとめて、早めに帰ることにする。旅の終わりは寂しいものだが、やることは山積みだ。今回の旅行記を纏める作業に入らなければならないし、すっかり溜まっている生活欄の記事も書かなければならない。事務仕事も滞っている。余韻に浸っては居られない。


「しかし、醸造所くらいでなんもない場所だって聞いてたが。ラウカも取材だったのか?」


 テオドレが首を傾げる。


「ラウカは縁がある場所だって言ってたよ。そう言えば、過去の記事があるかも知れない」


 風土病を克服した例は、それほど多くないだろう。過去の記事がどこかに残っているかもしれない。古い文明の痕跡についても、何か解るかも知れないし、あとで図書館に行って調べてみようとゾランは心に留めておく。


「ゾラン、ミラにも土産を渡すんだろ? それだけ終わったら、一緒に行こう」


「あ、うん」


 当然のように一緒に帰ることを提案するエセラインに、ほんのりと頬に朱が差す。なんとなく、エセラインの態度に慣れない。いつもより僅かに、甘い空気が漂っている。


 二人の様子を見ていたルカが、眉を上げて隣に座っていたテオドレを肘で突く。


「ちょっと」


「あ? なんだよ」


「あの二人、何かありましたね」


「あん?」


 ルカに促され、テオドレも二人に視線を向ける。真向いの机に並んだゾランとエセラインは、いつも通りに見える――が、どこかぎこちない雰囲気がある。ギクシャクしているのとは、また違う。ケンカではない。もっと、甘やかな――。


「はん?」


 思わずフッと鼻を鳴らして、ニヤリと口元を歪める。


「若いねえ」


「若いですね」


 二人がニヤニヤ笑っているのに気づいたエセラインが、菫色の瞳をスッと細めて睨んでくる。ゾランの方は気づいていない様子で、懸命にペンを走らせていた。




 大まかに記事をまとめ終え、ゾランたちは早々にクレイヨン出版社を後にした。早めに退勤したため、今日はまだ日が高かった。のんびりした街の空気を吸いこんで、思い切り背伸びをする。


「んーっ。旅も良いけど、やっぱりカシャロも良いよね」


「ああ。山も良いが、やっぱり安心するな。それに、グラゾンは美しいが住むには厳しい場所だ」


「確かに」


 嵐に見舞われたのも、なかなか大変な経験だった。今回は立ち往生で済んだが、そうは行かない時もあるだろう。あの土地で暮らすというのは、なかなか大変なことなのだろう。


(ラウカは、俺たちより先に帰っちゃったんだよな……。もうカシャロに戻ってるのかな)


 それとも、別の場所へ取材に出かけたのだろうか。ラウカ社の行動範囲は多岐に及んでいるので、把握するのは難しい。ラドヴァンによれば、ラウカは居場所を公開していないため、冒険者ギルドに言づけをしておけばラウカの方から接触してくるらしい。お礼を伝えたいので、後で改めて書状をしたためて冒険者ギルドにお願いするつもりだ。


「あ、洗濯屋に寄って良い? 旅行は楽しいけど、洗濯がねえ……」


「ああ。そればっかりはな……。俺も出しておこう」


 洗濯屋に立ち寄り、頼んであった洗濯物と引き換えに汚れ物を引き渡す。ゾランは下宿なので、洗濯室がない。洗濯物はもっぱら、洗濯屋に頼んでいる。


「今まではシャワーでも良いと思ってたけど、温泉に入るとお風呂が欲しくなるよね。キッチンも洗濯室もないし、やっぱり部屋がなあ……」


「……」


 エセラインは何か言いたそうな顔をしたが、「そうだな」とだけ返事した。最近はクレイヨン出版社の経営も安定しているので、部屋を移っても良いような気がしている。下宿人も増えたし、ゾランがいつまでも前の職場の下宿を利用しているのは、やっぱり少し健全ではない。


『クジラの寝床亭』のドアを開ける。まだ夕飯には早い時間のためか、店内は人がまばらだ。コーヒーの良い香りがする。


「ただいまミラ」


「あら。お帰り、ゾラン。それに、エセラインも」


 グラスを拭いているミラと、その奥でモップを掛けていたアロイスがゾランたちに気がついて顔を上げる。ゾランは鞄の中からワインを取り出して、ミラに手渡した。


「これ、ミラに。マルガリータと飲んで」


「あら。わざわざありがとう。嬉しいわ」


「ゾランさん、お帰りなさい」


 アロイスが人懐こい笑顔で近づいてくる。


「アロイス。ただいま。アロイスも良ければどうぞ」


 そう言って、ゾランはアロイスにカードを渡した。グラゾンの優美な山が印刷された、ホテルのお土産品だ。


「わあ。ありがとうゾラン。素敵だ」


 大仰に感激して、アロイスがゾランの手を取る。その様子に、エセラインがムッとしてゾランの肩を引き寄せた。


「ゾラン、今日は疲れてるだろ」


「え? あ、うん」


「ああ、そうよね。ごめんなさい、気が利かなくて。ゾラン、今日はゆっくり休んでね。あとでお土産話聞かせて頂戴」


 ミラがそう言うのに続いて、アロイスも頷く。


「次の旅行記、楽しみにしてますね」


「うん。ありがとう」


 二人に別れを告げ、二階に続く階段の方へと向かう。エセラインがそれに続いた。階段を二歩上がって、ゾランはエセラインを振り返る。


「ちょっと?」


「可愛い嫉妬だろ」


 肩を竦めるエセラインに、責めるつもりが、こっちが恥ずかしくなってしまう。「もう」と呆れた声を出したゾランの頬に、エセラインの唇が触れた。


「っ……」


「俺は嫉妬深いんだ」


「それは……初情報だね」


「俺も初めて知ったしな」


 視線を合わせ、思わず笑いあう。エセラインの指が、ゾランの指に絡まる。こういう仕草をすると、エセラインと『恋人』になったのだと実感して、なんだか恥ずかしい。落ち着かなくて、ふわふわした気持ちになる。


「お茶でも――と、言いたいところだけど……」


「まあ、ミラたちも居るし。我慢するよ。今日は休んで。良い夢を、ゾラン」


「ん……。エセラインも……」


 甘い囁きに、顔が熱くなる。多分、自分はトマトみたいな顔になっているに違いないと思いながら、ゾランは返事代わりにエセラインの指を握り返した。






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