「ウルス侯爵がバレヌ王室によるリオン国への武器提供開始を発表。予算四十億バレヌ相当の軍事支援を行うことを決定……。国内の醸造所支援のためにコーヒー規制を検討か。輸入品のコーヒーに対し増税を検討……」
眉間にしわを寄せながら新聞とにらめっこしているゾランに、穏やかな声がかけられる。
「難しいこと言ってるね、ゾラン」
「アロイス。社会面も読んで置かないとと思ってさ」
コーヒーを運んで来たのは、最近、ゾランの下宿先でもある『クジラの寝床亭』で働くようになった青年、アロイスだ。コーヒーの香りを吸い込みながら、ゾランはホゥとため息を吐く。
「コーヒーが増税なんかしたら、暴動ものだよ。カシャロ市民は黙ってないと思うね」
「本当に。でもどうなんだろう。ウルス侯爵肝いりの政策みたいだしね」
アロイスの言葉に、ゾランは目を瞬かせる。
「そうなの? 良く知ってるね、アロイス」
「まあ、貴族関連の噂なんかは、敏感じゃないとね。僕はサロンには出入りしていないけど、画家を目指しているから」
「へえーっ、画家かあ!」
画家、という職業のことは、正直に言えばゾランは良く知らない。貴族向けの絵などはサロンで発表され、高値で買われて行くというが、そういった画家はほんの一握りだという。
「まあ、僕はまだまだ。せいぜい皿に絵を描いたり、そんなものだよ」
庶民のインテリアと言えば、小さな絵皿を飾ったり、手仕事を飾ったりといったものだ。名の売れていない画家はポスターの絵を描いたり、壁や皿に絵を描くような仕事が多いという。百年ほどまえは、絵は教会のものだった。そのことを思えば自由になったが、絵を売って生きるのは楽なことではない。
「ゾランも、絵を描くだろ? 新聞に小さな絵を載せているのを見てるよ」
「えっ。ちょっと恥ずかしいな、画家を目指してる人に見られるのは……」
「暖かくて、良い絵だと思うよ。僕は好きだけどな」
「そ、そっか」
気恥ずかしさに俯いていると、不意に背後に人影を感じて顔を上げた。
金色の髪を揺らして、エセラインが立っている。
「何の話だ?」
「エセラインっ!」
パッと明るい笑顔を見せるゾランに、眉間にしわを寄せていたエセラインの表情が緩む。エセラインはいつものようにゾランの向かいの席に座った。
「随分、話し込んでいたようだが、暇なのか?」
「あはは。朝は忙しいんだけど、つい、ね。エセラインはカフェオレかな?」
「ああ」
注文を聞くと、アロイスはカウンターの向こうに引っ込んでいく。ゾランは新聞を畳んで、向かいに座るエセラインを見た。何も変わっていないはずなのに、彼の顔をみていると、ソワソワするような、うずうずするような、そんな感情が沸き上がる。
「エセラインって、アロイスにちょっと当たり強くない?」
「……それは」
自覚していたのか、唇を曲げるエセラインに、ゾランは首を傾げる。エセラインは菫色の瞳を逸らして、ハァとため息を吐く。
「そりゃあ、下宿先一緒で、朝から親しそうにしてたら、ついこうなるだろ」
「え?」
何を言われたのか一瞬解らずに、ゾランはポカンとした。だが、すぐにその意味に気づき、カァと顔が熱くなる。
「そっ……。それは、アロイスに気の毒だよ。別に、何でもないんだし……」
「解ってはいるが……」
互いに気恥ずかしくなっているところに、アロイスがサンドイッチとカフェオレを手に戻って来る。
「はい、ゾランはサンドイッチ、エセラインはカフェオレだったね。お待ちどうさま」
「あっ、ありがとう。アロイス」
「どうも」
いつも通りのサンドイッチだが、切り口がやや不格好だ。どうやらアロイスが作ったらしい。思わず笑ってしまうゾランに、エセラインがムッとする。
「あー。エセライン、アロイスって画家を目指してるんだって。エセライン、絵を見るの好きだろ?」
「へぇ?」
エセラインは興味を持ったようで、カフェオレを啜りながら顔を上げた。
「まだまだだけどね。けどいつか、サロンで発表したいとおもってるよ。そうだ、ゾラン。君、モデルになってよ」
アロイスの発言に、ゾランは驚いて目を丸くする。エセラインは先ほど柔和になった顔を、再び大きく顰めた。
「え? 俺っ?」
「うん。ここに来てからは知り合いも居ないし、本職のモデルを雇うのは結構お金がかかるからさ……。人助けだと思って! ね?」
「う、うん……」
人助けだと言われてしまえば、断る理由も思いつかず、ゾランはつい頷いてしまう。エセラインが「ゾラン」と強い口調で咎めたが、アロイスは人懐こい笑みを浮かべて、「ありがとう!」とカウンターの中に戻ってしまった。
「ゾラン……」
「べ、別に、ただの絵のモデルだろ?」
「……はぁ」
深いため息を吐くエセラインに、僅かな罪悪感を抱きつつ、ゾランはサンドイッチをぱくんと飲み込んだ。