街が夕闇に沈んでいく。藍色の闇に沈む街を歩きながら、ゾランは鞄を抱えなおした。酔客が笑いながらエールを呷る姿を横目に、石畳を歩く。夜のカシャロは、昼とは違った賑やかしさがあった。昼は締まっているレストランが一斉に開いて、道にテーブルや椅子を並べて外席を作る。席は食事と一緒に酒を飲む客で満席だ。労働者だったり、冒険者だったり、一日を懸命に働いた人たちが、数少ない楽しみを謳歌している。
ゾランは店から漂う良い香りに心惹かれながら、『クジラの寝床亭』へと帰って来た。カランコロンとドアベルを鳴らして、店の中へと入る。カウンターに立っていたミラが、すぐに気がついて顔を上げた。
「あらゾラン。お帰りなさい」
「ただいまミラ」
「その様子だと、楽しんだみたいね」
「あはは。まあね」
昨晩はエセラインのところに泊まった。そのことは、当然下宿先の主であるミラも知っている。なんとなく、気恥ずかしい。
カウンター席に座って、ディナーを注文する。今日は肉の気分じゃなかたので、シーフードを注文する。近くの川で採れる淡白な魚のフリットと、貝をガーリックバターで炒めたものだ。ガーリックバターはパンにたっぷりつけても美味しいので、ゾランのお気に入りのメニューでもある。
「あれ、ゾラン。お帰りなさい」
奥の方で皿洗いをしていたらしいアロイスが、ゾランに気がついてやって来た。ゾランはビールのグラスを掲げて「ただいま」と返事する。
「昨日はお泊りだったんだね。僕、知らなかったから、部屋を何度もノックしちゃったよ」
「あれ? そうだったの? 何か用事があった?」
「いや。用事というほどのものじゃないんだけどさ。ちょっと良いことがあったから」
そう言ってアロイスはにまりと笑う。どうやら聞いて欲しいらしいアロイスに、ゾランは苦笑して「何があったの?」と聞いてやった。
「へへへ。実はね。貴族のお屋敷で、絵を描かせて貰えることになったんだよ!」
「ええ!? 本当に?」
「うん。シュヴァル男爵が――あ、っと」
「……アロイス……」
慌てて口元を押さえるアロイスに、呆れて溜め息を吐く。アロイスの方は「へへ」とごまかす様に笑っているが、反省した様子はない。察するに、貴族からの依頼だ。あまり吹聴するべきではないということなのだろう。もしかしたら、先方から口止めされているのかも知れない。
(貴族からの依頼だっていうのに、そんなことで大丈夫かな……)
まだ付き合いの浅いアロイスだが、彼がかなり粗忽な人物だというのは解って来た。ゾランの魔法を勝手に覗いてしまった時もそうだったが、彼自身は悪気がないのだ。そして、悪気がないままに反省をしない。まさか貴族相手にまで反省せずにヘラヘラしていることはないと思いたいが。
(ミラに迷惑だけはかけないで欲しいけど……)
「それにしても、そんな所から声がかかるなんて、やっぱりアロイスはセンスが良いんだね」
「運が良かったのさ。それに、新しい絵の具を思い切って買ってみたから、それが良かったんだと思う」
「ああ、なるほど」
貴族は新しいものを取り入れるのが好きだ。古い伝統を重んじることもするが、誰よりも流行に敏感だというスタイルを貫くために、努力しているとも聞く。新しい絵の具を使った絵というのは、うまい具合に刺さったのだろう。
「いよいよ絵描きになるの?」
そうなれば、ダイナーの仕事はどうなるのだろうか。折角入った人員なのにと心配していると、アロイスは苦笑して肩を竦めた。
「残念ながら専業というわけじゃないし、まだまだダイナーの仕事を掛け持ちしないと行けないと思うな。絵を気に入って貰えたとしても、次も買ってもらえるかは解らないし。それに、まだまだ絵の具が高いからね……」
「ああ、そうか」
絵で食べていくというのも、簡単なものではないらしい。新しい絵の具が注目されたということは、それが流行した場合、パトロンがついていないと継続して絵の具を使うのは難しいかもしれない。他の画家が絵の具を使い始めたら、そちらの方が重宝される可能性だってある。
「じゃあ、今が頑張り時か」
「そうだね。夢をかなえる、第一歩だと思うよ」
アロイスはそう言って、拳を作って見せた。
「有名になったら、旅行記の表紙を描いてよ」
「有名になる前に依頼してくれたら良いのに」
「そうは行かないよ」
「厳しいなあ」
苦笑するアロイスに、ゾランもカラカラと笑う。友人の成功は、ゾランにも嬉しいものだった。今日は酒が美味しく感じる。
「それにしても、よく声が掛ったね?」
「マーケットの傍で絵を描いてたら、たまたまね。あの辺り、今はスケッチする人も多いだろう?」
「ああ、確かに。増えてるよね」
「マーケットで自分が描いた絵を売ってる人も見かけるよ。この前も子供を描いた絵が十万バレヌで買われててさ、有名な画家なのか聞いたら、先月初めて絵の具を買ったって言うんだよ。嫉妬しちゃうよね」
「そりゃあ、凄いな」
本当に才能がある人だったのだろう。感心しながら、ふとゾランは自身の手帳が目に入った。手帳には、ゾランが書いたスケッチがたくさんある。
(……最近絵を描き始めた人がいるのか。あれだけ広場で見るのも、そういう人が多いのかも?)
どうやら、最近のカシャロでは、絵を描くこと自体が流行りのようである。何気なくスケッチを眺めて、ゾランはハッとして思わず席を立った。
「ゾラン?」
「これだ!」
突然叫び出したゾランに、奥に引っ込んでいたミラが「どうしたの?」と顔を覗かせた。
「アロイス、ミラ、ご馳走様! 急用を思い出したから!」
「え? あ。うん。おやすみ、ゾラン」
「慌しいわねえ。お疲れ様、ゾラン。良い夢を」
「良い夢を、ミラ。アロイス」
ゾランは鞄をひっつかむと、二階への階段を駆け上って行ったのだった。