自分の背よりもずっと高い外壁を備える邸宅に、アロイスは一瞬しり込みした。本当にここで合っているだろうかと、以前渡された住所のメモを確認する。どうやら、アロイスに仕事を依頼したシュヴァル男爵邸で間違いないようだ。
ゴクリと喉を鳴らし、門扉へと近づく。市内では私兵を持つことを許されていないため、門番のようなものは居ない。その代わり、従僕らしい青年がアロイスを出迎えた。主人から話は通っていたようで、アロイスの訪問はあっさりと許された。貴族の屋敷など近寄りがたいばかりかと思っていたが、出入りの商人や職人、奉公人を多く抱える貴族の家は、入ってみれば人を招くことに慣れているらしく、アロイスの他にも多くの人が出入りしているようだった。
(緊張している場合じゃないぞ……。しっかりアピールして、パトロンになって貰わないと!)
ぐっと拳を握り、夢への一歩をかなえるため、アロイスは歩き出した。
◆ ◆ ◆
屋敷の中はアロイスが見たこともないくらい立派で、豪華だった。憧れの画家たちの絵が飾られたギャラリーや、新進気鋭の彫刻家の作品たち。シュヴァル男爵は芸術にかなり力を入れているらしい。アロイスはそれらを紹介されながら、いつか自分の作品もここに並べてもらうんだと、気持ちを強くする。
「私は新人作家を支援するのが趣味でね。まあ、道楽のようなものだよ」
はは、と笑って口ひげを触る男爵は、スラリとしたスタイルの、壮年の男性だった。シュヴァル男爵家自体は貴族としての歴史は浅く名家というわけではなかったが、当代の男爵はやり手らしい。アロイスは彼の言葉や言動、家の雰囲気などの端々に、羽振りが良いことを感じた。
「すごいコレクションですね。実に……素晴らしい」
「そうだろう?」
感心するアロイスに気分を良くしたのか、男爵は大きく頷く。
(凄いな……。これが、成功しているってことか……。僕の人生とは、大違いだ)
絵と出会ってから、アロイスの人生は好転した。きっかけは、借金持ちの絵描きだった。金貸しのもとで働いていたアロイスは、まっとうな仕事をしてこなかった。弱者に金を貸しつけ、ボロボロになるまで回収する。回収しきれなくなったら、売り飛ばす。そういう仕事だ。暴力に向いていない性格だったから、辞めたいと何度も思ったが、抜け出すのは難しかった。だが、ある時転機が訪れた。
酒浸りになって筆を持つことも出来なくなった絵描きが、そのまま酒に飲まれて死んだ。ボスは債権が回収できなくなったとぼやいて、ボロボロの家財道具でもなんでも、売れるものを売ってこいとアロイスに言いつけた。二束三文にしかならなかった家財道具の中に、絵の道具があったのだ。毛が抜けてろくに描くことの出来ない筆と、固まった絵の具。折れて使い物にならない鉛筆。売れたのは書きかけのキャンバスと、足の壊れたイーゼルだけだった。満足に描くことの出来ない絵の道具は、売ることが出来なかったのだ。
一バレヌにもならなかったとボスに知られれば、アロイスが殴られる。だからアロイスは、ボロボロの絵の道具を、なけなしの金で自分で購入した。たった三十バレヌで買った絵の具が、アロイスの人生を変えた。
見よう見まねで、絵のまねごとを廃材に書き記した。アロイスには多少の絵の才能があったらしい。絵を描くことが楽しくなって、あちこちに書きまくっていた。そうしたら、絵の存在がボスにバレた。怒られると思ったアロイスだったが、ボスは何かを思案し、真新しいキャンバスと絵の具を買い与え、アロイスに絵を描いて見せろと言った。その絵を、ボスは知り合いの経営する酒場に飾った。アロイスの絵が、ものすごく気に入られたわけではないだろう。ただ、孤児が描いた絵ということで、物珍しさがあったに違いない。もし、ボスがまだ生きていたのならば、アロイスのパトロンはボスだったに違いない。
だが、残念ながらボスは死んだ。金を貸した男に、逆恨みで切り殺されたのだ。店は畳まれ、アロイスは放り出された。それからは、皿や壁に絵を描いて一晩の宿代をねん出する日々だった。ある時、店先で看板の絵を描いていたアロイスとミラが出会い――給仕を探しているミラと、宿を求めているアロイスの間で、合意が取られて下宿することになったのだ。
ミラのお陰で、アロイスは毎日飢えることなく、暖かな食事にありつけている。給料をもらうことが出来るようになり、絵の具を買う余裕も出来るようになった。
そして今、路地裏の孤児だったアロイスは、貴族の屋敷に居る。
「私はコレクターでね。何でも、集めるのが好きなんだ……。絵画、彫刻、宝石、剥製。古いコインに――魔法も」
「魔法も?」
ねっとりと喋る男爵の声は、不思議な魅力があった。魔法という言葉に、顔を上げる。
「魔法石というのを知っているかね? あれは、とても美しい……。私は魔法石の、かなりのコレクターなのだ」
そう言って、男爵が壁にある燭台を引っ張った。仕掛けが作動し、本棚が動く。回転した本棚の裏側に、青や赤、緑などさまざまな色をした美しい宝玉が並べられていた。妖しい輝きを放つ魔法石に、アロイス息を呑む。
「素晴らしいだろう? これは『蠱惑』。東の帝国を滅ぼした美姫が持っていた魔法と同じものだ。こっちのは『偽装』。稀代の詐欺師が使っていたという魔法だ。どちらの魔法も、とても素晴らしいだろう? まあ、今は禁術扱いされているし、私はコレクションが趣味だから、使うことはないのだけどね……」
「す、すごい……」
感嘆のため息を吐いて、アロイスは目を輝かせた。怪しい輝きに、思わず手が伸びそうになるのを男爵がそっと遮る。
「君はどんな魔法を持っているのかね?」
「あ……僕は」
アロイスは落胆した。ランクが高い魔法使いなら、孤児であっても使いではある。アロイスの魔法ランクは1。それも、空いているスロットはたった一つという、最低ランクのものだった。そのたった一つのスロットにも、最近まで魔法は入っていなった。『クジラの寝床亭』で働くようになって、ミラに「これくらい持っていた方が良いわ」と『水滴』の魔法を譲ってもらっただけだ。
「『水滴』、です……」
「ふむ」
その言葉に、男爵は酷く素っ気なく答えた。関心が一気に薄れたような気がして、アロイスは慌てて顔を上げる。このまま関心が薄れて、絵のこともすべてなくなってしまうのではないか。そんな気になって、恐ろしくなる。
「っ……、で、でもっ、友人は変わった魔法を持ってるんですよ。もしかしたら男爵も持っていないかも知れないですよ」
「ほう?」
思わず口走った言葉に、男爵があからさまに反応した。思った通り、男爵は魔法に酷く興味があるのだ。
「は、はい」
アロイスはドクドクと心臓が鳴るのを感じた。下手なことは言えない。既に啖呵を切ってしまった。数百種類の魔法を所有する男爵が知らない魔法など、あるのだろうか?
ただ、アロイスには多少の自身があった。金貸しをしていたころ、多くの魔法を見て来たからだ。変わった魔法を持つものは、高く売りさばけた。特に貴重だったのは家系魔法で、一度だけ家系魔法を売ったことがあるが百万バレヌ以上になったとボスが喜んでいたのを覚えている。
(エセラインは家系魔法を持っているらしいけど、何の魔法か知らない……。僕が知ってるのはミラとマルガリータ、ゾランだけだ)
周囲に居る人たちので、内容を知っているのはそれだけだった。魔法を覗き見る癖を、ミラに何度も咎められた。店に来る客の魔法を覗いたら、信用問題だと言われた。かつて居た金貸しでは、債務者たちが隠す前に魔法を覗けと言われていた。彼らは魔法を金に変え、遠くに逃げるからだ。
(多分、あの感じ……。ゾランは家系魔法持ちだ)
家系魔法かそうでないかも、多くの魔法を見て来たアロイスにはすぐに解る。ゾランの持っていた特殊な魔法。アレは間違いなく家系魔法だ。そして、長いこと金貸しをして来たアロイスでも、知らない魔法だった。
「私の知らない魔法とは、大きく出たものだ」
呆れた顔をする男爵に、アロイスは愛想笑いをする。その顔が気に入らなかったようで、男爵は顔を歪めた。
「ボッ……『ボックス』です!」
「なに?」
「何の魔法か詳しくは知らないですが、友人の魔法は『ボックス』っていう魔法なんです。多分、家系魔法だと思いますけど」
「――『ボックス』、だと」
男爵の瞳がギラリと光った気がした。
(興味を持ってもらえた!)
「確かに、私の持っていない魔法だな。友人――だったか」
「は、はい。クレイヨン出版社の記者で、ゾランという人です」
「クレイヨン出版社――。なるほど……。そうか……。そうだったか……」
男爵はそう独り言ちて、ニコリと笑みを浮かべた。それから。アロイスの肩を抱いて機嫌よく笑う。
「君は使える男のようだ。中庭を案内していなかったな。私は仕事がある故、家のものに案内させよう。是非ゆっくりして行きたまえ。ディナーに招待しようじゃないか」
「こ、光栄です……!」
酷く機嫌のいい男爵に、アロイスは自分が何かを手にしたのだと感じて、興奮に震えたのだった。