夜闇の気配に、エセラインは足早に通りを行く。家々の明かりは既に消されており、街は静かな気配に包まれていた。石畳を歩きながら、星明りを頼りに家路へと急ぐ。冷えた家に帰ると思うと、なんとなく気鬱な気持ちになった。
(ゾランは寝ただろうか……)
沈んだ気持ちを振り払うように、太陽のような恋人のことを思い出す。ようやく思いを告げ、一緒になることが出来た恋人のゾランとは、今日はろくに逢えていない。世の恋人たちは逢えない日をどうやって過ごしているのか、不思議でしょうがなかった。少しでも離れれば声が聴きたくなり、顔を見たくなる。目の前に居れば触れたくなるし、肌の匂いを嗅ぎたくなる。
エセラインは最近、少しだけ思っていることがある。冷え切った家に帰る心細さと、孤独。不意に襲い掛かる家族を失った時の恐怖と虚しさを、ゾランならば埋められるのではないかということだ。それは、単純な「もっと逢いたい。もっと傍に居たい」という感情とは、少しだけ違っている。エセラインには、ゾランが必要だった。
だが、ゾランにエセラインが必要なのか、それが解らない。
多少強引に、想いを通じ合ったような気がしているエセラインは、そこに踏み込むことが怖くて堪らなかった。ゾランは優しく、押しに弱い。エセラインに対する感情が同情ではないと、本当に言えるのだろうか?
(……俺のことを、ラウカよりも好きなのだろうか……)
その一点については、非常に自信がなかった。ゾランを記者にし、遠い山奥の小さな村から、カシャロにまで連れて来るきっかけを作った男。肌身離さず持っている古びた手帳に、何度嫉妬心を抱いたか分からない。ゾランが嬉しそうにラウカの話をするのが、本当は気に入らない。ラウカの記事を丁寧にスクラップしているのを見ると、気が狂いそうな焦燥感に駆られる。
ラウカは実際、エセラインから見ても良い男だ。甘いマスクと低すぎない声で、華やかな外見をしている。冒険者時代の華やかな経歴も、エセラインよりもずっと優秀だ。彼はランク5魔法使いで、S級冒険者に最も近いと言われていた。記者としてもラウカも、認めざるを得ない。貴族や大手商人に忖度することなく、悪を悪として断罪する。
ラウカ・ハベルという男は、どこまで言っても完璧な男だった。
(クソ……)
溜め息を吐いて、石畳を蹴り飛ばす。ゾランの心を、疑っているわけじゃない。自分を見る時の瞳の揺らめきを、甘い雰囲気を、信じていないわけではないのだ。だが、それでも。
どうしても、考えてしまう。
自分の知らなかった嫉妬深さや疑い深さに、嫌になって来る。こんな自分を、きっとゾランは好きではない。そう思うが、止められない。
(はぁ……。マリーナが見たら、笑われるな……)
妹のマリーナが生きていたら、きっとゾランとすぐに仲良くなるだろう。もしかしたら、自分よりも仲良くなってしまうかも知れない。「にいさんって嫉妬深いのね。カッコ悪いわよ」なんて、ませた口調で笑う姿が、容易に想像出来た。
同時に、今この世界に、どうしてマリーナが居ないのだろうかと、昏い気持ちがフラッシュバックする。
エセラインが連絡を受けたのは、アカデミーの討論会が終わった直後だった。深刻な顔をする教師に、エセラインは当初、何があったのか理解できなかった。兵士に連れられ霊安室を訪れた時も、まだ何があったのか理解できなかった。激しい炎で焼かれた遺体は、僅かな骨が残っただけで殆どなにも残らなかった。イェリネク家の人間が犠牲者の中に含まれていると判断された理由は、妹の残した『氷晶』の魔法石のおかげだった。遺骨の中で、一際青く輝く石が残されていたのを、今でもまざまざと思い出される。決定的な証拠を目の前に突きつけられたのに、その骨が家族だとは、とても思えなかった。
家族を失い、自分は不幸になった。不幸なままに生きて行かなければならないと、ずっと思い込んでいた。
それを、「笑って良いんだよ」と言ってくれたのはラドヴァンで、クレイヨン出版社で生活するうちに、徐々にエセラインは元の生活を取り戻した。何もしらないゾランがエセラインに普通に、当たり前に接するうちに、エセラインは本当にもとの性格を取り戻したように思える。一緒に笑うことが出来るようになり、美味しく食事をとることが出来るようになった。
復讐に生きるのではなく、ただ、普通の日常を、生きて良いのだと。それが、亡くなった家族の為にもなるのだと、気づかされた。
不幸になるのではなく。幸せになる。それこそが、家族の望みだと。
それでも、時折。不意に薄暗い過去がフラッシュバックする。そんな時、ゾランはエセラインを暗闇から引っ張り出してくれる、小さな星になる。昏い大海原を漂う子船が、
昏い気持ちを、ゾランの翡翠色の瞳を思い返して振り払い、歩を進めた時だった。
不意に鼻をつく異臭に、顔を顰めて空を見上げる。
「――火事?」
藍色の昏い夜空が、赤々と照らされる。黒煙が、夜空に吸い込まれていた。火事を報せる鐘が鳴り響き、辺りがにわかに騒がしくなる。寝静まっていた家の窓が開かれ、不安そうに空を見上げる人がそこに立っていた。
火災のきな臭さに交じって、一瞬火薬の臭いを感じ、エセラインは通りを振り返った。黒いコートの男が、路地の向こうに消える。
「――っ!」
ドクン、心臓が鳴る。嫌な予感が背中をじりじりと這い上がる。呼吸が乱れ、視界が歪んだ。
(まさか。まさか)
男を追って、路地を降り曲がる。
そこに――。
「……いない……」
薄闇の路地には、誰も居なかった。眩暈を感じ、額を押さえる。確かに、黒いコートの男が、いたはずなのに。
残ったのは、嘲るような暗闇と。うっすらと残る、火薬の臭いのみ。