ほんの少し前に、幸一はバラバラになった祭壇に登って、神の幹の残骸に触った。
すると、柱は微弱な振動を出した。
旧世界が滅んだ時、もう知るものはいないかもしれない。この祭壇と神の幹は、天良鬼を処刑するためのものではない。
古い伝説によると、これらは新しい神となる人を迎えるためのものだ。
でも、還初太子は死ぬまでに、その神が自分であることを知らなかった。
還初太子の生で、彼の魂は神となるための任務をすべて完成したが、予定のないひどい殺戮行為によって、天罰を受けた。
それでも罪を清算しきれなかったから、旧世界が滅びる前に、平安という少年に転生し、破滅の苦痛を経験した。
平安という少年はよくやった。すべての人は罪を他人に押し付け、自分だけの救済を求める腐りきった世界で、ただ一人で良心を保った。
平安が死んだ後、すべての記憶も感情も洗浄され、神としての新生を迎えるはずだが、その魂は悪鬼に攫われたゆえに、神にならなかった。
前世を思い出した幸一は知っている。
世界の意志は、旧世界の徹底的な終結を求めている。
古い世界は消え、新しい世界の養分となる。そして、新しい世界もいずれ終結を迎え、次の世界の養分となる――それは世界の循環というものだ。
この遺跡で自分を祭れば、前世で結びつけなかった一つ循環が完成する。
世界の意志は彼を呼んでいる、催促している、求めている。
だけど、そんな終わり方は彼の望むものではない。
幸一はもう一度空を仰いぐ。
破滅の日に空をかける悪鬼の残影を見た。
彼は神の幹から手を引き戻し、祭壇を後にした。
幸一が本当の目的地は、砂の海だ。
そこで、魚人たちが真珠を採取する隧道が残っている。
迷宮のような隧道の深い深いところに、還初太子はお宝を隠した。
旧世界に来る理由は、そのお宝のためだ。
目印の鯨の骨の下で、幸一はを両手で砂を掘る。
まもなく、彼はお宝に触った。
「……あった!」
嬉しい気持ちで砂から七色光る真珠貝を掬いあげたばかり、いきなり、後ろから厳しい声がした。
「何をやっている?」
「!」
幸一の動きが止まった。
信じらないように、少しずつ振り返って、手の届くところまで来ている修良に目を向けた。
「先輩……どうして、ここに……?」
「神の幹のほうに誘導したのに?」
修良は幸一の疑問を補完した。
「幸一のやりたいことに気付いていないと思う?」
「こっ、幸一じゃないよ。還初太子で呼んでください」
幸一は慌てて白を切った。
「言っただろ。私にとってのあなたが一人だけだ」
修良は顔色を変えずに、幸一の目をまっすぐ見る。
「そんな、強引だな。あれから二回も生まれ変わったから、さすが違いがあるだろ……?」
修良の強い眼差しに心を焼かれて、幸一は気まずそうに目線を避けた。
「幸一より強引な人は何処にいる?」
修良は人間の左手で幸一が真珠貝を持つ手の手首を掴み、重い一言を置いた。
「あの時、もう言ったはずだ。私はほかのものになるつもりはない」
「!」
幸一はちょっと動揺したけど、やはり諦めずに真珠貝を懐に収めた。
「でも、もう世界が変わったんだ!先輩は悪鬼でいる必要がなくなる。悪鬼のままだと、先輩は人型を維持するために、膨大な生命力を取り込まなければならない。旧世界の残骸はいずれ全部消える。先輩はまた悪鬼になるかもしれない!」
「私はどんな姿でもいい。それに、あなたから霊気を分けてくれれば、私は消えない」
修良は安定な声で幸一を落ち着かせようとした。
しかし、その発言は逆に幸一を刺激した。
幸一は修良の手を振って、強く反発した。
「先輩がそれでよくても、俺はよくない!」
「!」
修良は驚きで目を大きく張った。
幸一の体から、黒い力が湧き出ている。
世界が滅んでいても汚さなかったその魂に、魔が生れたなんて……そんなこと、ありえるのか……!?
「なんで俺なんだ!?先輩は、鬼さんは旧世界の悪意を、世界を滅ぼした罪を背負ったのに……なのに、旧世界の福徳は、全部俺に振り込まれた!そんな理不尽なこと、おかしいだろう!!」
幸一は修良の両腕を掴んで、必死に訴えた。
その澄んだ目から、修良は初めて闇のような葛藤を見た。
「先輩は、世界が進化するための道具じゃない!だから、俺はその福徳をすべて念力に変えて、願う。きっと、先輩を元の姿に戻せる!!」
幸一の不穏な感情に共鳴し、遺跡が強烈に振動した。
隧道の天井に亀裂が現れ、欠片が落ちてきた。
でも、修良は一歩も動かなかった。
彼の心臓は、獣の牙に噛まれたような激しい痛みを感じた。
まさか、幸一に心魔が生れたのは、自分のためなのか……!
いくら本人の福徳ても、あんな膨大な力を一気に変えるような無茶なことをしましたら、幸一はきっと消滅する。
なぜ、もっと早く幸一に打ち明けなかったのか。
悪鬼でいることは、もう苦痛ではない。
理不尽とも思っていない。
むしろ、悪鬼でるから、幸一を守られる。
悪鬼でるから、思うままに幸一を縛られる。
悪鬼でるから、幸一を感じられ、生きている実感がある。
……
言えなかった理由は、修良はもう気づいている。
(私は、還初太子の約束も、幸一の気持ちも信じていなかったようだ……)
(心のどこかで、まだ幸一に拒絶されるのが怖い。)
(私の臆病が、幸一を追い詰めた……)
「それは、あなたの心魔なのか……」
自分を責めながら、修良は脆い何かを包むように、幸一の両頬を手に取った。
浄心の呪文を唱えようとしたら、幸一に口を塞げられた。
幸一の体が魔の気配に纏われているが、両目の光がさらに増した。
「心魔じゃないよ。それは、俺のずっとしたかったことだ。還初太子の生の前から、そうしたかった!」
「還初太子の生の前から……?」
修良は戸惑った。彼は還初太子以前の幸一を知らないはずだ。
幸一は一度軽く苦笑して、逆に修良の両頬を掴んだ。
「先輩はもう自分が天良鬼だった頃の姿を思い出せないだろ?それ以前の自分の姿も忘れたのだろう」
「そう、だろう……」
修良の生は長すぎる。寂しい過ぎる。
何かを覚える必要もないし、誰かに覚えられる必要もない。
還初太子が現れる前に、ずっとそう過ごしてきた。
幸一は目を閉じて、何か美しいものを思い出したように、幸せそうに微笑んだ。
「でも、俺は覚えてる。魂に焼かれた、あなたの純白な姿。俺は――ずっとずっと昔から、あなただけを見つめていた……」
「!」
ふいに、修良も思い出した。
はっきり聞こえなかった、還初太子の最後の言葉は――
「本当は、あなたを、真っ白な姿に戻してあげたかった……!」