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第10話 『好き』の温度

 皆が座り直した場所は、最初の位置とほぼ同じだった。慧は天使と席が近く、彼の表情がよく見えた。

(嬉しそうだな……)

 ページを捲っていく天使からは、これまでとは違った空気が放たれていた。彼は身長は低めだが、細く、モデル体型で大人びて見える。だが、今の姿は、クリスマスプレゼントを貰った子供みたいだ。

 キオク図書館に来てから天使は様々な発言をしたが、全てが受け身だったように思える。明日香と澪央を追い詰めていた時すら分からないことを質問しただけで、彼女達が動揺した理由を理解していたかどうかすら怪しい。

 澪央が吐き気を催した時、慧は瞬時に増大した『負』を受けた。明日香の『負』もゼロではなかった為に痛みで動けず、直ぐに駆け寄れずに見ていることしか出来なかった。一気に焦りと悔しさが沸き上がったが、天使に対する怒りは感じなかった。それは多分、彼に『悪気』が無く、人を傷つけようと意図した発言では無かったからだろう。

(でも、今のは……)

 誰かに言われてではなく、天使自身が望んで起こした行動だ。『僕の人生は両親のものだから』という言葉を思い出す。彼は、両親に強い執着を持っているのかもしれない――

「読めるのか?」

 そう考えていたら、アレクシスが天使に対して問い掛けた。

「え? うん、読めるよ!」

 顔を上げた彼は上機嫌で答え、すぐにまた読書を再開した。漫画であれば、周囲に音符が飛んでいそうだ。

(アレクシス……?)

 慧には、管理者の質問の意図が読めなかった。親子間なのだから本は読めて当然だろう。何故、読めないと思ったのか――

「僕が生まれた時、お父さんは『上出来だ。間違いなくクラスの人気者になる完璧な顔だ』って言ったんだよ。出産は仕事で立ち会えなかったけど、終わった後に病院に来てくれたんだ」

 ――それはそれとして、『本』を読む天使は、本当に楽しそうで、嬉しそうでもあった。慧は微妙な心境になった。聖夜の言葉は、子供への愛から来るものではなく、単なる『評価』のようにも思える。それか、聖夜が物凄いツンデレかのどちらかだろう。

 化学準備室での紗希と澪央の話では、母である真莉愛は出産時に『可愛いのは知っていた。期待通り』と言ったのだという。その後の子育ての方針から予想すると、前半は『優れた容姿の私達から生まれたのだから可愛くて当然』、後半は『これだけ可愛いのだから期待、もしくは予定通りに子は育つ』という意味に思える。

 子供を跡取りという――ある意味道具として見ている両親と天使の間には、好きという感情の大きさに差があるのではないだろうか。

「両親が好きなのか?」

 気が付くと、そう訊いていた。

「好きだよ! 神谷君も好きでしょ?」

 にこにこと、人好きのする笑顔を向けてくる。先程までの得体の知れなさは無く、普通に同級生と話しているようで、安心感すらあった。

「……どうだろうな」

 自宅の仏壇に置いてある両親の写真を、二人の顔を思い出す。子供の頃は、両親が好きだった。毎日一緒に暮らす中で、無邪気に『好き』を伝えていた。しかし、十年以上の時が経ち、その間ずっと感情を抑えて生きているうちに『好き』は『温度』に変わっていった。仏壇に手を合わせて感じるのは、寂しさと同時に『温かさ』だ。温かく、大切な存在だ。

「俺の両親は小さい頃に死んでいて……」

 天使にというよりは、この場に居る全員に話す気持ちで、心の温度について話す。

「……だから、好きかどうかは分からないけど、大切に感じているのは間違いないと思う」

 それを『好き』とも呼ぶのかもしれないが、慧としては少し違うと思ってしまう。

「そうなんだ……」

 話の何処に気落ちしたのか、天使の笑顔が萎んでいく。彼にとって親という存在が特別であるというのは、ほぼ間違いないだろう。

 彼からは『負』を全く受けない。親の方針を受け入れていたとしても、今の成績で重圧を一切感じていないというのは些か妙だ。どこか違和感を覚える発言の数々に――それに、直斗が以上を来した時も、言い訳をするように口数が多くなったが、四人目の『負』にはならなかった。あの時、天使には何らかの感情の動きがあった筈なのにも関わらず。

 天使の精神は普通ではなく何処かが歪んでいて――その原因は、恐らく両親だ。

(だったら、俺は天塚の助けになりたい……)

 さっきは『本』が出ない理由を知らないと、という考えでキオク図書館に残った。天使に対してどうしたいかの答えは出ていなかった。しかし、今は彼を助けたいと思う。息子への聖夜と真莉愛の態度を想像し、それを受けた天使が次第に歪んでいったとしたら――

 やるせなさを感じると同時に、胃が重くなる。天使は『本』を閉じると、しゅんとした状態のまま話し掛けてきた。

「神谷君は、お父さんとお母さんの『本』は読んだの?」

「……いや、読んでない」

 読みたいと思ったことはある。だが、結局読まずじまいだった。

「どうして? 読みたくないの?」

 見詰めてくる少年は、純粋な疑問というよりはどこか心配そうな顔をしている。慧は誤魔化さずに答えることにした。

「最初は、読む必要は無いし読むべきじゃないと思ってた。でも、この図書館を通じて色々見てきて、今は興味が出てきてる」

「両親の本を読みたいのか」

 アレクシスが口を挟んでくる。驚きを含んだ口調に少し腹が立ち、気恥ずかしさもあって仏頂面になってしまう。

「それは、あれば読みたくなるだろ」

「そうか……」

 管理者はバツが悪そうに慧から目を逸らす。視線の先には、無限に続く本棚があった。今まで薦めてこなかった後ろめたさでもあるのだろうか。

「だったら、ここで一緒に読まない? 僕もお母さんの『本』が未読だし」

 天使の顔に笑みが戻る。名案を思いついた嬉しさと共に、彼の善意が伝わってくる。

「……今日は話すべきことがある。別日にしてもらえるとありがたい」

 慧を見ないままで、アレクシスは言った。残念そうにする天使の「そっか……」に被せるように、管理者は話を続ける。

「さて、では家に侵入する方法だが……」

「あ、それなら思いついたよ」

 真莉愛の『本』を開きながら、天使は言った。

「お父さんの取引相手になればいいんだよ」

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