痛みは、その瞬間には頭に入ってきてはくれなかった。
身体に何かがぶつかってくる衝撃と、眼の前に血を吐き出す棒きれのようなものが飛んだ光景を脳が理解するのとで、痛みはその次。
それはまるであの日、
痛い所を掴んだ所で痛みがより増すだけで痛みが収まるわけがないのに、何故か強く強く腕が繋がっていた場所を握りしめてしまって、反対に身体は少しも動かなくなって倒れる事すら出来ない。
痛い、と脳が理解してしまえばもう他に頭の中には入ってこなくなって、ただ痛いという言葉を、ひらがなにすればただ3文字だけのその言葉を、延々と頭の中で繰り返す。
いたい、いたいいたいいたい!
グッと掴んだ左腕からはバシャバシャと血がバグったみたいに溢れ出していて、勿論それだって掴んだだけでは止まってくれない。
いたい、という言葉がある程度出尽くしたら次は「なんでこんな時に」なんて言葉が出てくる。
ぼんやりとしている意識の端で、リリがオレに背中を向けて執務室の方に居る白い服の誰かに向けて魔術を撃っているのが見えた。白い服だが、フロイトじゃない。フロイトより背が高くて、年嵩の男だ。でも、見覚えはない。
その男への攻撃も、まるで蝋燭が吹き消されたかのように消滅して、やはり何らかの手段でもって魔術が封じられているのだけは理解した。
少し視線をズラせば、やはりオレに背を向けてカイウス王子が剣を振っている。オレの近くにいるせいで窓が邪魔をして、剣を振れる空間が随分狭くなっているのが立ち位置だけでわかった。それでも、アレンシールが多分フォローしているんだろうなっていうのも、わかった。
オレが中心となって、全てを邪魔している。
オレが、
オレのせいで。
そう気付いた瞬間に滅茶苦茶にムカついて、オレは「痛い」という言葉を歯を食いしばって意識の外に追い出そうとした。
昔、歯が痛くて仕方がなかったけれど両親が「試験勉強が優先だ」と試験が終わるまで歯医者に連れて行ってくれなかった時、オレは歯以外の部分に爪を立てて――まぁつまりは歯以外にも痛い部分を作って痛みを誤魔化していた事がある。
勿論そんなのには意味はないってのは分かっているんだけど、その時はそこそこ誤魔化しにはなったような記憶があった。
結局は頬が腫れてきた事で保健室から親に連絡が行って歯医者には連れて行ってもらえたけれど、痛みを誤魔化すために太ももにシャーペンを刺し続けたせいで太ももは結構悲惨だったものだ。勿論、両親はそんな事は知らないけれども。
だから、今だってどうとでもなる。
腕が一本なくなったくらいでなんだ。オレはもっと残忍な方法で人を殺してきているんだ。
腕一本ちぎれたくらいなら人間は死なないって事を、オレはよく知ってる。
「ぐっ!」
じゃあ今すべきは何か、と一瞬考えて、オレは【治癒】を捨てて【火】を選んだ。
つまりは、露出している負傷部位の中で血を流し続けている部分を焼く事だ。痛いならより痛いところを作ればいい。そんでもって、オレは蚊に刺される可能性を考えるだけで嫌な気持ちになるくらい痒いのが大嫌いだ。
痒いくらいなら、痛い方がずっとマシ。
「お前は何者です!」
火が肌を舐る熱さで、ぼやけていた視界ははっきりとした色を持った。脳を突き刺す刺激が覚醒を促したとでも言おうか、とにかくバッキバキに開いた目のお陰でリリを襲っていた奴がまったくオレの知らない男だという事もはっきり分かったのだ。
王の寝室のバルハム大司教と、執務室の謎の男。どちらをオレが優先すべきかと言われれば、そんなの戦力的にあとから来たほうに決まってる。
「なんと! 自ら傷を焼くとは……令嬢にあるまじき所業! このべムード、実に驚きましたぞ!」
「誰だか知りませんけど、ただの令嬢だと思ったら怪我をしますよ!」
オレが手に取ったのは、執務室の机の上にあるペーパーナイフだ。
カイウス王子が使っていた人の手を傷つける事のないソレに、【氷結】をまとわせて氷の剣のように仕立て上げる。
【結界】を全員にかけるのが無理なら、手っ取り早く一人倒して突破口を切り開くしかない。それも、魔術が使えないなら物理で、だ。
「リリ! フロイトと下がりなさいっ!」
「エ、エリス様っ!」
「ここは任せて!」
こんな所でモタモタしている余裕はない。炎の向こうの部屋にはまだノクト侯爵と辺境伯とジョンが居るはずで、彼らの安否は分からない。ヴォルガだってさっきは生きていたが酷い傷だ。早く処置してやらなくては彼女もまた危ないかもしれないのだ。
だが、何とか右腕にまとわせた氷の剣のせいで身体が冷えて、ちぎれた腕が酷く痛む。失血も多く、目眩でグラグラしてべムードとかいう男の姿をはっきりとらえることが出来ない。
真っ白い服を着ているせいで余計に壁と同化しているのか、目を何度擦ってもどこが服でどこが壁なのかもわからなかった。しかも目を擦った腕には血が付着していて、目が痛む。やらかした。
血液を目に入れたのなんて始めてだが、自分の血でもなんか身体に悪そうだ。
フラつく身体をカイウス王子の執務室の机で支えれば、オレの様子に気付いたのだろう王子がこちらに身体を向けるが、バルハムに阻止される。
今は何とか王子とアレンシールであの衝撃波を食い止めている所なのだ。どちらかが抜ければ、一気にバランスも瓦解してしまう事だろう。
攻撃魔術が効かないのは、多分ここが王の寝室の繋ぎ間であるせいだ。ここにかけられた守護の魔術が、リリの攻撃魔術を消失させている。もしかしてバルハムも、そしてこのべムードとかいうおっさんも、それを狙ってきたんだろうか?
そうなのだとしたら……ずっと前からコイツらはこの瞬間を狙っていた?
ニタリと、べムードが持っている武器なのだろう細長い何かを構えながら口角を上げる。そういう所だけはっきりと見えてなんだか凄く、腹がたった。
持っているのは槍だろうか。先端にだけ刃物がついているせいでオレの腕を吹っ飛ばしたが間に居たリリは無傷で済んだのかもしれない。リリの腕がちぎれていたかもしれないなら、オレでよかったの、かも。
いやでも、エリスは嫁入り前の娘さんだ。しかも貴族の、こんなに綺麗な、女の子。
怪我の表面を焼いたはずなのにそこからじゅくじゅくとした液体が滲んできていてそれが妙に痛い。エリスの腕を一撃で吹っ飛ばす相手に、この状況で勝てるのか?
痛みが状況判断を鈍らせている状況で、戦っていいのか?
こんなのは、エリスの日記にも書かれていなかったのに?
「逃げなさいエリス!」
アレンシールの声が、どこか遠い。
そうだ、逃げる。逃げるのが一番だ。リリとフロイトは奥の部屋に逃がした。寝室とは逆方向の部屋。あっちに行けば、あの扉を封じれば、少なくとも少しの時間は稼げるしフロイトに治療だってしてもらえるはず。
でも、オレが逃げてもいいのか?
アレンシールとカイウス王子を残したままで?
まだ安否の確認も出来ていない人が居るのに?
オレが逃げる?
逃げて、どうする?
何が出来る?
「ぅ、あ……」
ガラガラと、ペーパーナイフを握っていた手を覆っていた氷の剣が崩れていく。
「エリス!」
アレンシールの声も、カイウス王子の声も遠くて、それよりも剣で肉を殴ったり鉄がぶつかったりする音の方がはっきり聞こえていて妙に、なんか、変だった。
逃げたほうがいい。それは分かっているのに。
わかったのに、足が動かない。
手から、血でぬるついたペーパーナイフが落ちた。