(先輩に……キス……されてる……)
たった一秒ほどの短い時間だったかもしれないが、俺の中では、その何倍も長い時間に感じられた。
(ずっと……このまま……)
唇から伝わってくる瑛斗先輩の体温が心地良くて、俺はこの時間が永遠に続けばいいと思ってしまう。
だが、そんなことを考えているうちに、重ねられていた唇が下唇、上唇と順番にそっと離されたのを感じると、俺は名残惜しそうにゆっくりと目を開けた。
目を開けて映り込んできたのは、目元を軽く伏せさせている瑛斗先輩の顔で、俺はその整った顔を見つめるだけで胸が締め付けられた。
(あれ……? キスって……。唇にキスは……家族でもしないんじゃなかったっけ……)
ぼーっとしていた頭が少しだけ働いてきて、俺はそんなことを頭の片隅で思い出すと、瑛斗先輩の顔はゆっくりと俺から離れていった。
「その……。震えは……治まったようだな。よかった……」
「えっ……」
瑛斗先輩の視線が見つめる先には、金属製で冷たい非常階段の踊り場の上で、力が抜けたように置かれていた俺の手があった。
そして、いつのまにかその手に、瑛斗先輩の手が重ねられていた。
覆うように俺の手へ重ねられた瑛斗先輩の手から力が込められると、その仕草は俺の手の震えが治まっていることへの安堵からなのだと悟った。
(ああ……。今のキスも全部、俺を落ち着かせるためだったのか……。そっか……)
抱き締めて、優しい言葉をかけながら頭を撫でてくれたこと。
それは、パニックを起こした子どもを落ち着かせる対応と一緒なことに、俺は今更気がついた。
(きっと……瑛斗先輩が幼いときに、お母さんがやってくれたんだろうな……)
おでこから頬、そして唇へと移っていった優しいキスも全て同じ意味なんだと気付いた瞬間、俺は全身に感じていた火照りが、外の冷たい空気によって冷えていくのを感じた。
同時に、胸をいっぱいにしていた沸き立つような幸福感は、まるで儚い泡のようにどこかへ消えてしまい、穴が空いたように淋しさを覚えた。
(本当に……。俺はなにを期待してるんだ……)
初めておでこにキスをされたときも、屋上で上書きと言ってもう一度されたときも、瑛斗先輩から何かを期待している自分が、急に恥ずかしくて堪らなくなった。
「あっ……その……。あ、ありがとうございます……。俺がパニック起こしちゃってたから、こんな……」
(そうだ。抱き締めてくれたのも、キスをしてくれたのも全部……)
俺は慌てて立ち上がると、瑛斗先輩が不思議そうに俺を見上げていることに気付いたが、そのまま顔を背けた。
「俺を落ち着かせるために……。その……。して……くれたんですね……」
瑛斗先輩に確かめるというよりも、俺はまるで自分に言い聞かせるようにたどたどしく呟いた。
「理央……急にどうしたんだ?」
瑛斗先輩は俺のことを心配するように慌てた様子で立ち上がると、俺の肩に向かって手を伸ばしてきた。
(いやだ……。もう、期待させないで欲しい。優しくしないで……)
俺は反射的にそう思い、気づいたときには瑛斗先輩から伸ばされた手を叩いていた。
それは咄嗟に出た、完全なる拒絶だった。
少しの間、瑛斗先輩は驚いたように叩かれた手を見つめていたが、俺はそんな瑛斗先輩に罪悪感を覚え、目を逸らしてしまった。