【3】
「やあ、変わりないな伊丹」
『あっ、藍川さんだ!』
清潔でがらんとした病室に藍川が入る。見舞いにオレンジ色のガーベラの造花を持って行き、机の上にそれを飾った。彼は丸椅子をベッドに引き寄せるとそこに座り、少しも動かない少年を見下ろす。今日も彼の容態は変わらず、死体のように横たわり生かされる体に変化はない。
しかし、藍川の権能は伊丹の心の声を聞いていた。
「仕事が休みになっててな。暇を潰しに来たんだ」
『会いに来てくれたんでしょ?面白い話をしに』
「……まあ、そうとも言えるな」
部隊の隊長であるラジオが謹慎中である為、藍川達は何もすることができない。仕事は基本的にひっきりなしだが今は受けることができない以上、日々の巡回業務以外にすることがないのだ。故に、こうして伊丹に時間を割ける。
「ずっと天井見てるんじゃ飽きるだろ。どうやって耐えてるんだ?」
『妄想して乗り切ってる。もしも体が動いたらって妄想』
「一年間それで持ったのなら大した夢想家だよ」
『でも、看護師や家族が視界に入ってくれないと妄想にのめり込み過ぎちゃう』
植物状態の伊丹にも眠りのサイクルは存在している。目を閉じられるわけでもなければ決まった時間に寝られるものでもないが、確かに眠っているのだ。起きている間はただ天井を見つめるわけにもいかず、伊丹は妄想することで時間を潰す。そうしなければやっていけないのだから。
「もしも体が動いたらか……どんな話なんだ?」
『今は大学生編だね。学費が払えなくなりそうでピンチなんだ』
「妄想の中くらい自分に都合良くしたらどうだ?」
『人生は上手くいかないくらいが楽しいんじゃん』
その意見について藍川は賛同しかねていたが、伊丹のことを想って何も言わなかった。まだ小学生で不自由な体の彼にそんなことを言う程人間の心がないわけではない。一人の人間として、敬意を払って接しているのだ。
『ねえ!そろそろ藍川さんの話してよ』
「はあ……五年前だったか、南米で仕事したことがあったんだ」
『南米ってどこ?僕、日本を出たことないんだ』
「ブラジル、南アメリカの国だ。そこで組織に入った女の訓練を任された」
『凄いや……そんなの想像もできない』
一度も国の外へ行ったことのない小学生にとって、南米は遠い遠い国だろう。自分の想像を超える組織があり、藍川のような人知を超えた力を持った存在が居る。植物状態となって世界と隔絶された今の伊丹からすれば、そんなに面白いことはない。
「その女は力はあるけどセンスがなくて、おまけに酒に弱いんだ」
『藍川さんと同じ力を持ってるの?なのに酒に弱いの?』
「そういう弱点なんだ。で、酔って俺に酒を飲ませてきた」
『ははは!滅茶苦茶な人だ!』
五年前の南米、色々とアレな司祭に付き合わされて振り回された藍川の記憶。まだ十代後半に入ったばかりの彼は今とは違い、ずっと冷ややかで恐れを知らぬ人物だった。表面的には今も昔も変わっていないかもしれないが、実際は違う。
「訓練の時も二日酔いでフラフラだ。あんな司祭中々居ないんだぜ」
『そんなんで仕事になるの?』
「まあ、訓練の終わり頃には一人前になってた。今は優秀だって聞くぞ」
『凄いや。いつか会ってみたいなあ、他の人とも』
伊丹と話をすることができる人間は藍川しか居ない。その死体のような体がどうにかならないことには、体内に木霊するだけの声は誰にも届かないのだ。藍川が彼の声を他人に伝えることはできるだろうが、そんなことを信じる者は居ない上に機密の観点から不可能な話である。
「おいおい、俺が仲介するなんて勘弁だぞ。自分の口で話してくれ」
『ははっ、これ治ると思う?』
「医者じゃないから詳しいことは言えないが、植物状態はずっと続くわけじゃない」
『……病室で父さんとお医者さんがそんな話をしてたな』
意識はなくとも耳は聞こえているわけで、両親と医者がしていた不穏な会話も聞き取っていたわけである。自然治癒するという希望は残っていた。だが、その確率は低くいつ治るのかは誰にも分からない。二十年近く経ってから治ったというケースもあれば、一年程度で死んでしまったというケースもあった。
『僕の体がどうなるかは誰にも分からない。でも、僕は生きてるだけでそれでいいよ』
「高望みすると辛いか?」
『うーん……違う気がする。言葉にするのは難しいなあ』
伊丹は暫くの間考える。自分のことは自分が一番分からないもので、単純な小学生だからといってすぐに言葉にできるわけではない。むしろ、自分のことについて考えたこともなかっただろう。しかし、ずっと植物状態で妄想以外にすることのなかった彼は、考える力が卓越していた。
『多分、より良く生きられるならそれがいいけど、僕はただ生きていたいんだ』
「植物状態のままでもってことか……」
藍川は伊丹の心を読んでいるわけで、彼の考えが次第に読めてくる。
『どんな状態になっても生きるのを諦めたくない。死ぬまで生きたいんだよ』
「思考が止まるまで?」
『例え止まっても。生き物だからさ、死ななきゃそれでいいんだ』
どこまでも、どんな姿になろうと生きていたい。それはある意味、答えの出せない問題への一つの回答なのかもしれない。医療の発達に伴って終末医療の増加が進む現代社会、無理に延命できるようになってしまったことで浮上した問題に答えは出せない。生かすも殺すも患者や家族が決めること。
藍川も考えを巡らせる。
「伊丹は終末医療って知ってるか?」
『知らない、何それ?』
「治療を諦めて、苦痛を除去して安らかに死ねるようにする処置のことだ」
『うげー勘弁してよ。化け物になっても死なないからね』
伊丹は生きることだけに命を燃やしている。その動かない体が動いてくれるのであればそれでいいが、どちらにせよ生きることさえできれば彼は満足なのだ。高望みはしない、ただ生きていたい。例え永遠に苦しみが続こうと生きてさえいればいい。彼はそういう人間なのだ。
『ずっと苦しみが続くとしても……僕は絶対に死にたくない』
「……やりたいことがなくてもか」
『人間って……そういうものでしょ?』
伊丹にそう聞かれた時、藍川は答えることができなかった。彼に人間のことは分からない。昔よりも人間らしくなったからといって、彼にその問いを答える自信はなかったのだ。零点から赤点に近付いたというだけで語れる程の人間ではないのだから。
小さな声で彼が答えた。
「さあな……俺には分からん」
【4】
蓮向かいのデータベースにて、藍川が無言でパソコンに向かいキーボードを打つ。このデータベースに記録されている情報は膨大な量で、最早何があって何がないのかが分からないレベルになっている。だが、検索してみれば自然と答えは出るのだ。
彼が伊丹海の個人情報を閲覧する。
「……交通事故……十歳で、意識不明」
個人情報のファイルによれば、彼は下校中に薬物中毒者に車で轢かれてしまったそうだ。それは十歳の頃、ファイルには現在とそこまで変わらない姿の写真が載せられている。植物状態の少年に回復の見込みはなく、現在も入院は続いていた。
更にスクロールする。
「……普通の子供か」
遠足や学校行事等の古い写真も載せられており、微動だにしない少年が確かに生きて動いていたことを彼は実感する。学校生活についての記述では友達が多く、国語や英語の成績が天才的だったそうだ。十歳の頃に英検一級を取っているという記述もあった。
彼が同年代の子供と比べてしっかり話せるのはそれが理由かもしれないと藍川が思う。
「どうするか……どうしたものか」
植物状態から治療する方法は蓮向かいにいくらでも存在している。任務中に負傷する職員は溢れる程居るが、中には脊椎や脳を損傷する者も居る。最先端の技術を持つ蓮向かいであればそれらの治療も行うことができ、記憶以外であれば元に戻すことができるのだ。
司祭は概念防御が邪魔をする為にそんなことはできないが。
藍川がある考えを頭の中で巡らせてパソコンを睨んでいると、誰かが彼の肩を叩く。振り向いた先には藍川のよく知る人物が居た。
「やあ、藍川少年。元気にしてたかい?」
「……お前ってタイミングがいいな、バレル」
その女性は彼が伊丹に話した人物、南米が誇る酔っ払いの司祭。今は酒を飲んでいないものの、彼女が気の強そうな二十台後半の女性であることは確かだ。噂をすれば何とやら、どこからともなくやってきた。
「タイミング?何の話だ?」
「今日、お前が訓練してた頃の話をしたんだよ。運がいいな」
「……藍川少年、まさか酔った時の話をしたのか?」
「そりゃそうだろ。俺酒飲まされ……」
「あーあーやめろ!忘れろ!私に思い出させるな!」
忘れたい記憶を思い出してバレルが悶絶する。それは今から五年前の話であり当時二十歳の彼女からすれば嫌な思い出だ。アルコールを概念防御で弾く司祭が酒で酔うことはないが、弱点でアルコールへの耐性を失ってしまう場合もあるのである。
「まあ概念防御があるから酒は無害だが、それ以外は……」
「勘弁してくれ!あの後のことは忘れるって約束だっただろ……」
「……まあいいか。何の用だ?」
「ん?この支部にたまたま用があったから来ただけだ。最近どうだ?」
最近どうだと聞くバレルが彼と最後に会ったのは三年前、状況はかなり悪い方向に進んでいるが彼女は知らない。ただ単純に数年ぶりに出会った彼と世間話がしたいだけなのだ。それに、彼女は粳部ほど察しがいいわけじゃない。
それに合わせて藍川は近況報告をする。
「最近ウチの隊長が謹慎くらった。おかげで通常業務以外にすることがない」
「休めるならいいじゃないか。藍川少年は昔学生じゃなかったか?」
「少年って年じゃねえさ。今はしがない駄菓子屋の店主だよ」
「駄菓子屋……元気そうで安心したよ」
穏やかな笑みを浮かべてデスクにバレルが座る。彼女は気が強い人物ではあるものの本質的には優しい人物であり、藍川の話を優しく聞いてくれる人物である。最後に彼女が会った時の彼は十九歳だったが、当時の藍川はまだ現在の場所に引っ越してすらいなかった。
「バレルはどうだ?」
「南米は忙しいよ。マフィアとテロ屋の相手ばかりしている」
「そっちはそっちで忙しいか。何ともだな」
南米は仕事の数がとにかく多い。全世界に居る蓮向かいの職員の内、割合として南米を担当している者が一番多いのだ。解決すべき事件の数、増加し続ける人口を考えれば当然である。バレルも藍川ほどではないが休めないわけだ。
彼女が足を組む。
「……なあ、一つ考えたことがあるんだ」
「ん?何だ」
それは、たった一つの希望。
「Ω+の権限で、無理にウチの医療班を動かしてみようかな。なんて」
「……何がしたいんだ?」
「植物状態の知人を治療したい。もちろんただの一般人だ」
バレルが眉をひそめる。彼の提案は組織の人間として受け入れられるものでもないが、普通の人間としては目を逸らせないものだ。組織の技術力があれば植物状態から回復できる。しかし、規則としてそれは許されていないというジレンマ。
「それは……厳しい。最新技術は余程の理由がなければ職員に使うものだ」
「……理不尽な話だ。技術規制、二千二十年だってのにまだPHSを使ってる」
「植物状態なんて簡単に治せる。でも、一般人には使えないんだ」
「分かってるさ。規制解禁までは使えないって……」
蓮向かいの加盟国で施工されている技術規制は、上層部の決定によって何十年も守られ続けている闇の規則だ。合理的に考えればこの規制によって現在の平和が作られたと確かに言えるが、大手を振って素晴らしい規制だとは言えない。
「技術の進歩に法と人間が付いて行けていない、それは俺も同感だ。だが……」
「平和維持の為に必要だって、言ったのは五年前の君だろう……」
「……お偉方の審議は長過ぎる」
「やっても君の立場が悪くなる……気の毒だけど止めた方が良い」
「……分かってるさ」
急速な技術の進歩は人や法を置いて行ってしまう。置き去りにされたそれらが社会に牙を剥く前に、技術規制という規制でそれを防ぐ。そのやり方は確かに成果を出しており、規制に規制を重ねられてインターネットの犯罪は少ない。革新的な技術が生まれても規制し抑え込み、進歩を犠牲に平和を勝ち取ったからだ。
しかし、藍川に誰かを犠牲にできる覚悟はない。
「試しに聞いただけだ。ありがとう」
そう言って彼は立ち上がり、部屋を出ようと歩き出す。バレルは組んでいた足を元に戻すと彼の背中を見つめる。
「……今度また飲まないか?」
「また飲ませてくるのか?」
「そんなことしない!」
振り向かず、短い笑いが聞こえた後に彼が答えた。
「まあ、その内な」