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11-5

【7】


 無機質な廊下を歩く藍川。あれから数日が経ち、仕事を終えた藍川はその合間を縫って再びお見舞いに来ていた。多忙故に滞在時間は減ってしまうものの、普段伊丹が誰とも会話できないことを加味すれば来るだけいいことだった。

 藍川は仕事で疲弊しているものの、今だけは元気だった。

「……ん?」

 何か嫌な感覚がすることに気が付いた彼は足を止め、エレベーターのボタンを押した。エレベーターが降りてくる間、この肌を刺すような感覚が何なのか必死に考える藍川だったが、まだこの段階では答えを出せない。

 到着したエレベーターに乗り、伊丹の病室がある五階のボタンを押す。彼一人を乗せて動き出したエレベーターは静かにモーターを駆動させる。しかし、藍川の感じ取るノイズは次第に大きくなり、確かに近付いていった。

「これは……俺の権能が?」

 彼の『搦目心中』は祭具を出さなくても権能を使用できるイレギュラーな権能。故に、誰かの強い感情を自然と受信してしまうことが定期的にある。距離が近くなれば完全に知覚し、相手の心に触れられる特異な力。

 そして、それが裏目に出る。

『嫌だ……まだ死ねない……死にたくない』

「……伊丹か?」

 心の声を藍川が感じ取る。声の主は伊丹であり、彼の様子は完全におかしくなっていた。初めて会った時に感じ取った声も助けを求めるものであったが、ここまで緊迫した命乞いをするようなものではなかったのだ。これは明らかに命の危機にある。

 状況が気になる藍川だったが祭具を出すわけにはいかない。

『苦しい……お願い……死にたくない』

「くそっ!まだ着かないのか!」

『死にたく……な……』

 ようやくエレベーターの扉が開き、伊丹の病室のある五階へと藍川が飛び出す。狭く誰も居ない廊下を彼が全力疾走し、曲がり角を曲がると通りかかった看護師を躱して高速で進む。尋常でない速度に驚く看護師だったが、藍川がそれに気に留めることはない。

 既に、伊丹の声は途絶えていた。

「伊丹!?」

 彼が病室に飛び込んだ時、最初に見たのは驚く医者と伊丹の両親だった。そして、次に見たのはベッドに横たわる人工呼吸器を外された伊丹だった。心拍は既に停止している。人工呼吸器なしで息ができる筈もなく、彼はもう死んでいたのだ。

 何があっても生きたいと思っていた彼は、ここには居ない。

「お前ら伊丹を殺したのか!?」

「あ、あのすいません……」

「あなたはこの前の……進藤君の」

「何で人工呼吸器を外した!あいつはまだ!」

 生きたいと願っていた。自分の人工呼吸器を外そうとする医者と両親に怯えながら、自分で呼吸できずに窒息死したのだ。これは生きたいと願う小学生にしていいことではない。これは最早殺人と言ってもいい所業だ。

 しかし、事情を知らなければこれは殺人にはならない。伊丹の願いを両親は知らないのだから。

「もう楽にさせてあげないと……この子もそれを望んでます」

「あいつがそんなこと言ったか!?心を読んだつもりか!?」

「家族には分かるんですよ。もう楽になりたいって言ってました……」

「よくもまあそんなことが言える!分かった風な口を!」

 自分は子供の心を分かっていると、楽になりたいと言っていると言う女に嘘はない。自分自身を騙している為に何も分かっていないだけなのだ。現実問題、伊丹はどんな状況でも生きることを選ぶ人間だ。伊丹を楽にするべきだという自分の考えを正当化する為に、彼もそう思っていると思い込んでいるだけ。

 藍川が壁に寄りかかる。

「あんたがそう思いたかっただけだろうが……」

「……」

「……あんたらは何も悪くないさ。ただ、善意でそうしただけなんだから……」

 もう伊丹の心拍は既に停止している。もう、どうにもならない。

 力が抜けた藍川はフラフラと歩きだし、廊下を蛇行しながら歩いていく。もう彼は急ぐ必要も焦る必要もなくなったのだ。伊丹はもう死んでしまった。人工呼吸器を外すことを止められなかった。彼が病院を空けた数日間で全ての段取りが済んでいたのだ。

 あの日、藍川が母親の心を読んでいれば止められたかもしれない。

「死んだのか……」

 伊丹の叫びが藍川の中に未だに木霊していた。彼の呼吸はもうとっくに止まっていたというのに、彼の中ではまだ彼の声が生きている。しかし、これもいつか消えてしまうのだろう。藍川が耐えられずそれを止めてしまうからだ。

 階段に腰かけて放心状態の藍川の下に、階下から谷口が昇ってくる。

「しけた面してるな。と、いつものお前なら言う」

「……谷口、放っておいてくれ」

「そう言うわけにもいかない。我らが隊長から命令が来ている」

 いつもと変わらない仮面で彼と向き合う谷口はそう言って、ズボンの後ろのポケットから携帯電話を取り出した。スピーカーが付いている機械ということは、それはつまり『彼女』が聞いているということだ。

 聞き馴染んだ声が響く。

『どうも、元気してる?ラジオです』

「……」

『じゃあ、谷口さんは伊丹さんの死体を持ってきてください』

「……えっ?」

「承知した」

 谷口はラジオの指示に従うと携帯を藍川に渡して通り過ぎていく。突然のことに理解が追いつかない彼を置き去りに廊下を走っていくと、伊丹の居る病室に入った。伊丹の死で打ちのめされている彼には余りにも情報量が多い状況だ。

「何をする気だお前」

『えー伊丹さんは高い言語能力を持ち、諜報員としての才能がある』

「……はい?」

『また、藍川さんの機密を知っており機密保持の観点からも加入を推奨』

 それはラジオの考えた言い訳だった。スピーカーが付いているのならば何だって盗聴できる彼女は、当然藍川と伊丹の会話も盗聴していたのだ。ガーティとの会話から事情を察した彼女がそういう計らいをしたのである。

 藍川が希望から少し調子を取り戻す。

「お前ずっと俺を盗聴してたのか?」

『まあ、謹慎中暇だったし。彼を組織に加入させる手筈は整えてる』

「そ……そんな無茶なやり方」

『既にラジオ、藍川、谷口の三人から推薦が出てる。条件は粗方満たした』

「勝手に人の名義で推薦を書くな」

 しかし、これで伊丹を蓮向かいに加入させる準備ができた。審議中の人が死亡するなんてことはあってはならず、当然蓮向かいの医療班を動員させて治療しなければならない。心肺停止状態から蘇生し植物状態も治療するのだ。

『彼には将来性がある、という内容で報告書を書いてる。嘘は吐いてない』

「書いてるってまだ途中かよ」

「おい、持ってきたぞ」

 死体を抱きかかえた谷口がやって来る。騒ぐ医者と親の声が聞こえる中、気にも留めずに涼しい顔をして藍川の隣に立っていた。

「た、谷口お前!」

「彼を採用するんだろう?ならば蘇生できなくなる前に行くぞ」

『今だけ本音で話す……自分の心を信じて』

 素の低い声でラジオがそう言った。自分の心を信じろと言われても、それは藍川にとって最も難しいことだった。しかし、彼は既に一度失った身だ。伊丹の死を経験し後悔した彼が選ぶ選択肢など決まっている。

 二人を追いかけて医者達が駆けてくる。

「行くぞ!基地まで!」

「ああ、既に医療班を待機させている」

 そして、二人は階段を駆け下りていった。そこに一切の迷いはなく、伊丹を助けようとする純粋な友情だけがあったのだ。もう二度と失わない、間違いを犯さない為の最終手段。複雑な藍川が辿り着いた単純な答え。




【8】


 それから時は飛び十一年後。路地裏に停車している自動車の運転席、青年はメモ帳にアイデアをスラスラと書きながら不在の相棒を待つ。まだ日が昇ったばかりの空は澄み渡った色をしていて、汚れて錆びた路地と対照的な色合いをしていた。街はまだ眠ったままだ。

 その時、助手席の扉が開く。

「外れだった伊丹。やっぱりお前が正しいかもしれない」

「やっと負けを認めたか。あの夫人の権能は物体の転移だよ」

「はあ……で、何書いてんだ?」

「次の舞台のアイデアだよ。劇作家は多忙なものでね」

 表向きの顔はオリジナルの脚本を劇場に卸す劇作家。しかし、裏では蓮向かいに所属し捜査を行う職員の顔を持つ。あれから十一年の時が経った二千三十一年、伊丹海は契約通り蓮向かいで働いていた。蘇生と植物状態の治療の対価は組織での労働。

 それが見合ったものかは分からないが伊丹本人は満足していた。

「こうして文字にしないと忘れてしまう」

「忙しそうだな。何でこの仕事やってるんだ?」

「うーん……義理があるからというのもあるけど……会いたい人が居る」

 伊丹が働く場所と藍川が働く場所は遠く離れている上、二人は蘇生後に会っていない。伊丹はお礼を言う為にも会いたがっているのだが、藍川は自分から会いには行かないようにしているのだ。伊丹の方から会いに来るように、彼の成長を期待するように。

「命の恩人なんだ。でも、助けてくれた後は会ってない」

「なんかキザだな」

「ここまでおいでって言ってるんだ。自分の力で来いってさ」

 伊丹はそう解釈していた。姿を消した藍川は今も組織の中に居ることだけは分かっている。ならば、自分の力で見つけ出すのみ。心で繋がっていた二人は距離が離れようと時が経とうと、今もこの空の下に互いが居ることを感じているのだ。

 伊丹がポケットにメモ帳をしまい、車のキーを回す。エンジン音が空に響いた。

「しっかし、人なんてうじゃうじゃ居るのに一人を見つけるわけか」

「今だって一人の犯人を追ってるだろ?」

「まあ、それはそうだな」

 車が走り出し、路地を抜けて通りに出る。路地裏の四角かった空は大きく、そして際限なく広がっていく。かつて病院の天井を見つめていた少年は今は世界を見ている。だが、彼は少年時代と変わらず今も生き続けることを願っている。誰よりも生きることに真摯な彼はそれ以上のことを望まない。

 そして、今自分が生きていることを藍川に感謝したいのだ。

「まあ、あの人なら多分……もうどこかで僕の心を読んでると思うけどね」

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