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15-2

【3】


 ホテルの上階、一面の窓ガラスから藍川が夜景を見下ろす。日本の程に高い建物があるわけでも灯りが多いわけでもないが、高層からの景色は確かに壮観であった。とは言え、彼からすれば三十分も眺めれば飽きが来るような景色だ。

 彼が振り向くと、ソファに寝転ぶバレルが透明な蒸留酒の瓶をラッパ飲みしていた。

「馬鹿だろ。何で同じミスを繰り返すんだ」

「しょーがないだろ!酒が好きなんだから!」

「どうせ吐いて死ぬほど苦しむぞ。司祭だから死ねんが」

「ハハハハハ!そりゃ傑作ゥ!」

「えっ?何が面白いんだ?」

 もう完全に出来上がってしまっているバレルは自分の世界に入ってしまった。こうなるともうどうにもならない。司祭は概念防御で全てのアルコールを自動的に解毒するが、彼女だけは弱点によってそれが機能しないのだ。

 つまり、ベロベロに酔える司祭なのである。

「はあ……酒で酔う弱点か……羨ましいな」

「ふふっ……鈴は酔えないんだったな。で、これの味はどうだった?」

「ああ、アグアルディエンテ」

 部屋は酒とサトウキビの匂いが充満している。サトウキビから作られた甘い蒸留酒がコロンビアの定番であり、バレルが一気飲みしているのもそれである。だが、ここまで匂いが充満していても彼には気にならない。

 藍川はソファに座ると彼女と向かい合う。

「悪いがもう味覚がないんだ。嗅覚も火薬とガスしか分からん」

「……そうか。今度会ったら飲ませたいと思ってたんだが」

 バレルが途端に萎れる。あらゆる攻撃を防ぐ概念防御は最強の盾ではあるが、人から人間性を奪っていく諸刃の剣でもあるのだ。生き甲斐の為に力を捨てるか、力の為に生き甲斐を捨てるか。藍川のような人間は当然後者を選ぶ。

 彼はワインの栓を抜くとそのままラッパ飲みをした。

「概念防御が強いのも……考え物ってことか」

「人間でいたいならやめとけよ。形態変化は特に」

「ああ……もったいないから飲むな!」

 ラッパ飲みする藍川から無理やり瓶を剥ぎ取ると、彼女は全て飲み干して顔を赤くする。酒の回り具合が悪化したのか、目を回すバレルはソファから床に転がり落ちた。呆れた藍川はため息を吐くとソファに寝転ぶ。とてもではないが世話を焼く気になれなかった。

「私は何も変わらないのに……君はどんどん変わっていくな」

「変わっちゃいない。歳食っただけで」

「変わったさ。随分と表情豊かになった」

 床からゆっくりと立ち上がるバレルと、そんな彼女から顔を背けてしまう藍川。彼女は酔った足取りで彼の下へ向かうと寝転ぶ彼を椅子にして座る。もう付き合いきれない彼は完全に呆れきっていた。

「……いつだって表面に意味はないものだ」

「それ、誰の言葉だい?」

「俺の言葉だ」

 彼女はテーブルの上の蒸留酒を手に取ると、藍川に座っていることを気にせず栓を抜いて飲み始める。決して相手してはいけないと思いつつも、彼も内心では少しイラついていた。とは言え、酔っ払いは相手しないに限る。

 彼女がシャンデリアを見上げた。

「なあ、飲まなきゃ聞けないことがあったんだ」

「ん?何だよ」

「……私をスカウトした時、私の心を読んだよな?」

 バレルを蓮向かいにスカウトしたのは藍川達だ。新しい職員は身辺の調査や精神鑑定を行われるが、掛かる期間や費用や人員を大幅にカットできるのが藍川なのだ。心を読みさえすればその全てが分かるのだから。

 彼はソファの背を見つめる。

「その時……全部見たのか?」

 人のプライバシーを踏みにじる最悪の権能。理屈上、彼の前で隠し事はできないようになっている。藍川よりも精神状態が悪い相手や多重人格者でなければその権能から逃れることはできないのだ。だが、バレルに権能は通用した。

 彼は姿勢を変えずに喋る。

「……いいや、精神の性質とざっくりと記憶を漁っただけだ」

「……そうか。安心した」

 シャンデリアから酒へと彼女の視線が移る。安心したような表情になった彼女はソファに背を預けると、再び蒸留酒を飲み始めた。だが、次第に我慢できなくなった藍川が起き上がると彼女から酒瓶を取り上げ、ソファから立ち去っていく。

 バレルが情けない声を上げて崩れていく。

「んだああ」

「そろそろ寝ろ。明日は早いんだ」

 そう言うと藍川は酒を飲み干して空き瓶を床に置いた。




【4】


『まあ、合格だな』

『そ、そうですか』

 それは五年前のことだった。緊張気味でパイプ椅子に座るバレルと、彼女と対面するガーティ。そして壁に寄りかかって二人を眺めている若い藍川。密閉されたコンクリートの薄暗い部屋で、篭る熱気を扇風機の風が循環させる。ここに居る三人の司祭からすれば熱気など気にもならない。

 ガーティが席から立ち上がった。

『よし、後のことは藍川に任せるぞ』

『……俺が?ガーティがやれよ』

『風邪気味なんだ。ちょっと薬探してくる』

 難儀な弱点を背負った男は少し咳をしながら出口を出ていくと、どうしていいか分からないバレルと黙り込む藍川だけの気まずい空間が完成した。組織について殆ど分かっていない彼女は気軽に話すこともできず、言葉を絞り出すには多少の勇気が必要だった。

『あー……一つ良いか?』

『何?』

『前から聞きたかったんだが……君、いくつだ?』

 日本人は遺伝子と食性の影響で実際の年齢よりも若く見えることがある。彼は平均よりも小柄でその年齢を特定することは難しかった。子供のように見える彼が何故こんな仕事に従事しているのか、彼女にはとてもではないが理解できなかったのだ。

 彼があっさりと答える。

『十六歳だ』

『はあ……私の弟と一緒じゃないか』

『ところで、何と呼べばいい?』

『えっ?』

『組織の人間は大抵本名を使わない。どう呼べばいい?』

 藍川はバリバリ本名を名乗っているが、他の人物は使い捨ての名前を持っている。谷口やラジオは本名ではなく、サンダー兄妹も映画監督も本名ではない。機密の保持の為にもそうするのが正解だった。

 彼女が席から立ち上がり、カーテンと窓を開けると外気を取り込む。

『……バレルと呼んでくれ』

『承知』

『藍川少年……この組織はクリーンな組織だと思ってたんだが』

 窓から吹き込む風がバレルの髪をなびかる。自分の弟と同じくらいの歳の少年がこんな物騒な仕事をしているというのは、清廉潔白な彼女からすれば嫌な話でしかなかった。子供は普通に生きて日常を謳歌すべきだというのに。

 彼はそんな彼女を無表情で見つめる。

『何か不満が?』

『君……それでいいのか?聞く限りは物騒な仕事だぞ。学業は?』

『仕事量は調節されている。両立は可能だ』

『……まあ、何でもかんでも清廉潔白は無理か』

 正々堂々と生きることを信条とする彼女も、現実がそう上手くいかないことは理解している。それでも最善を目指した結果がこれなのだ。自分が自分らしく生きる為の選択が、蓮向かいに加入することに繋がったのである。

『清廉?』

『正々堂々とやりたかったんだ。卑怯なことをさせたくなかった』

『……』

『子供でも司祭なら使うというのは……情けない話だよ』

 藍川は何も答えない。当人はそれに対して何も感じていないのだ。彼はバレルの悔しそうな表情を見つめるだけで無表情を貫き、彼女の吐露には反応を示さない。そこに人間らしさはない。

 そこにガーティが戻ってきた。

『例え道を間違えたとしても、悔いて元の道に戻ればいいのだ』

 彼女がガーティの方を振り向く。

『誰の言葉だ?』

『俺の言葉だ。忘れ物したから戻ってきた』

『……そうか』

 子供でも使えるのであれば使う。世界の現状を考慮すれば組織の選択は間違いではない。倫理的な問題があるとしても、彼らは毎年何万人もの人命を救っているのだ。救われた側の人間が文句を言うというのは、世間知らずな文句にも見える。

 いつか、変われる日は来るのか。



 バレルがゆっくりと目を醒ます。柔らかいベッドの中で天井を見つめていた彼女は、寝ぼけた眼で淡い蒼の光が差し込む方を見る。一面のガラス窓の向こうにある空はまだ明け方で、窓際の藍川は服を着替えていた。

 二人の目が合う。

「起きたな。もう仕事だぞ、着替えろ」

「あ、頭が痛い……少し目も回る」

「自業自得だ」

 ゆっくりとベッドから起き上がるバレル。自分がバスローブを着ていることに気が付くと、いつシャワーを浴びたのかを考える。しかし、残念なことに酔いに酔った昨夜のことは殆ど覚えていなかった。

 ただ、藍川が心の全てを読んだわけではないことだけは覚えていた。

「……そういえばこの前、君の後輩に会ったぞ」

「ああ粳部だな。その件は助かった」

「良い子そうじゃないか。大事にしてやれ」

「そのつもりだよ、来春」

 聞いたこともない言葉に耳を傾げるバレル。少し間を置いて自分の言い間違えに気が付いた藍川は血相を変え、それを訂正する。

「いや、言い間違えだ。気にしないでくれ」

「あ、ああ……」


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