第五十二話『あの時の本』
「少し、休憩しましょう」
美月の表情を見て、カルミア社長はナハバームの録画を止めます。次に、イチゴのコンポートの蓋を開けて、先の割れたプラスチックスプーンを差し込むと、アイの両手に持たせました。「ギャルも休憩」と言いながら、食べかけのリンゴと交換で。
「あんな質問してしまって、ごめんなさい。美月ちゃんはギャルの恰好で、ギャルの言葉を使わないと魔法が使えなかったのよね。最近、パギャルでも魔力の残りが少なくても魔法を使っていたから、大前提を忘れていたわ」
そうなんだよね。魔法のレベルを上げても、ギャルの恰好とギャル語を使わないと。魔法は発動しないんだよね。
「でも、あの部屋で魔法アイテムは有効だから、何か手はあると思う。例えば、ギャル文字だけで発動させるとか…」
考えは悪くないはず。
「休憩よ、休憩。ギャルも休憩。ちょっと、頭を休ませましょう。一気に使いすぎたかもしれないわ」
ニコニコしながら、カルミア社長はスプーンにすくったイチゴを、美月の口元に差し出しました。「あ~ん、よ。あ~ん」て、口を開けながら。
「あ、あ~ん」
おずおずと口を開けると、イチゴのコンポートがコロンと中に入れられました。控えめなシロップの甘さがジワリと舌に染みて、噛むとイチゴの甘酸っぱさが口いっぱいに広がりました。
「どうかしら?」
「美味しいです」
美月の渋い表情が、瞬く間にニコニコ顔になったのを見て、カルミア社長はホッとしました。自分でもイチゴを一口。2人はニコニコ微笑みながら、イチゴのコンポートを味わいました
「そういえば美月ちゃん、あの部屋でから本を持って帰ったわよね? どんな本なのかしら?」
「本?」
本なんて、持ち帰って来たっけ?
「ほら、スピリタスの横で広げていたでしょう? 本棚の本。ナハバームの録画に映っていたわよ、しっかり本を抱えている姿」
… あ! 確かに、抱えてた。
「すみません。無意識に抱え込んで、そのまま持ち帰りました。でも、今の今まで忘れていて、どこにあるのか分かりません」
本どころか、荷物の存在も忘れてた。
「あら、言っておかなかったかしら? 美月ちゃんの荷物はそこのキャビネットに入れておいたわよ。て」
え? 聞いてない。
ブンブン頭を振る美月を見ながら、カルミア社長はベッドの反対側に回って、キャビネットを開けました。
「あの日の美月ちゃん、全身を激痛に襲われていたから… 言い忘れたかも」
取り出した紙袋をベッドの上に置きながら、苦笑いのカルミア社長です。
「あの日は、聞いていたとしても、覚えていないと思います」
あの日の記憶は、痛みしかないもの。
紙袋を覗くと、ボディバックに制服と黒崎先生が用意してくれた洋服、その下にぼんやりとした黄色い表紙の本がありました。
「あ、ここにありました」
膝の上に取り出して、ぼんやりとした黄色い表紙を優しくなでながら「やっぱり、満月みたい」と思いました。
「年季の入った洋書ね。… つっ!」
カルミア社長は指先で、優しくゆっくり表紙を撫でいました。けれど、鋭い痛みを感じて表紙から指を放しました。
「社長、切れちゃってます」
指先から滴る血を見て、美月は慌てて枕元のティッシュ箱から数ッ枚抜き取って、人差し指を覆いました。
「美月ちゃんは大丈夫?」
「ありがとう」と言って、カルミア社長は人差し指を押さえながら、本を凝視しました。
「はい。何ともありません」
パっ! と、両手を広げて、カルミア社長に見せる美月。
「… 私、嫌われちゃったみたいね。中が見たいから、めくってくれるかしら?」
美月にケガが無ければ… と、カルミア社長は肩の力を抜いてベッドの縁に腰を掛けました。
「本に嫌われるって、この本も『力のある本』なんですかね?」
特に、魔力とかは感じないんだけれど。でも、この本の感触は好きだな。切れちゃうんじゃない? て心配になる紙はとっても薄くって、色あせた淡いクリーム色。どのページもびっしりと書き込まれているトルコ文字と、たまに挿絵。かすかに残っているインクの香りと、滲み具合。花の絵は上手なのに、動物は下手なところが味があるよね。
「これは…」
美月がゆっくりとめくるページを見ながら、カルミア社長は息を飲みました。そんな社長の様子に気が付くことなく、美月は楽しみながらページをめくっていきます。内容のほとんどは読めないけれど。
「あ、ここ。このページが…」
ぺら… と開けたそこには、見開き一面に満月の絵。淡い金と銀にで色付けられたその満月は、望遠鏡を覗いて描いた様でした。
「やっぱり、素敵だな」
美月はうっとりと呟いて、そ~っと月を撫でました。すると、本の中からふわっと優しい風が吹いてきます。
『君が産まれたのは、こんな月の夜だったよ』
その風は、男性の声を乗せていました。
『君が産まれた夜の月が、ただただその姿が美しくて… 無意識のうちに泣いてしまうほどに美しかったから、君の名前にしたんだよ。君は僕とお母さんにとって、暗闇でも優しく輝く美しい月だから』
…この声、お父さんだ。この声、お父さん…。
『これだけは覚えておいてね。君は僕とお母さんの宝物。美月、君は一番大切なものだよ』
風が止み、声も消えました。代わりに、パタタタ… と、月の絵に涙が落ちました。カルミア社長は何も言わずに、美月の肩を抱きしめました。その目も涙で濡れています。
「これ… お父さん、お父さんの… 物ですよね?」
もう一度、もう一度聞きたい。もう一度、聞かせて。お父さん、もう一度声を聞かせて。
美月は流れ出る涙をそのままに、何度も何度も月の絵を撫でました。
「そうね」
カルミア社長は、そんな美月の背中を優しく撫でました。
「私の事… 私の名前… 呼んでた…」
むせび泣く美月は、そっと本を胸に抱きます。行方不明の父を想って。
美月、ギャルで魔法使いでレベルの高いダンジョン探索者だけれど、父親は恋しいのです。懐かしい父の声に涙が止まりません。Next→