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第9章

第46話

 ふぁぁ、眠い。

「ちょっと香澄、今は良いけど教授に会ったらあくびはやめてよね」

「あ、うん。わかってるってば」

 私に注意をする初音は、朝早いのにしっかり目が覚めているようで、なんなら普段よりシャキッとしているではないか。

「それにしても初音、張り切っているわねぇ」

「それはそうでしょ、あの山田教授に会えるんだよ! あぁ緊張しちゃう。それに私、朝早く起きるのは苦じゃないしね。逆に夜じゃなくて良かったと思っているの、夜だったら親が外出を許してくれないんだもの」

 そりゃ私だって、そこそこ有名な教授に会うことが出来るのは光栄だと思ってはいるけれど、眠いものは眠いのだ。だって待ち合わせが朝の七時って、ビジネス界であり得るの? 相手が海外で時差があるというのならいざ知らず……ここは日本の首都よ?

 まぁ、それでも。

 それ以上の価値はあるわよね、こういう機会を与えてくれた紗綾先生には感謝しかない。


 待ち合わせ時間に遅れてはいけないし途中で不測の事態が起こるとも限らないから早めに出るわよと、初音に促されて早朝の街を歩いている。

「不測の事態って?」

「道に迷うとか、工事で通行止めとか、電車が遅れるとか、電車が止まるとか、お腹が痛くなるとか、急病人がいて助けるとか……いろいろあるじゃない」

 生真面目に指折り数える初音を見て、やっぱりどこか浮かれているのではないかと思う。

 急病人に出会うなんてそんな確率低すぎない? と思いながら周りを見渡せば。

「あら、こんな時間なのに案外人がいっぱいいるのね」

「夜通し遊んで、これから帰る人たちでしょ?」

 なるほど、若者たちはこれから帰るのね。あの集団は学生さんっぽいけど、親が働いたお金をこんな風に使うなんてね。あまり褒められたことではないけど、これが現実なのかしら。


「あら?」

「どうしたの?」

 学生さんたちとは別の集団の中に、知っている顔があった。

「こんなところで何をやっているのかしら」

「ねぇ、だからどうしたの?」

「あぁ、ごめん。知り合いがいたのだけど……」

 初音は私の視線の先を見逃さなかった。そして眉間に皺が寄る。

「どういう知り合いなの?」

「個人的に投資をしている若者なのだけど……」

「大丈夫なの?」

 初音が心配するのも無理はないと思う。

 彼がたむろしている集団は、見るからに悪そうな輩が集まっているのだから。

「真面目な研究者なのよ」

 その筈だ。私が会った時には、貧乏な暮らしでひたすら研究をしていたものだ。

 私は確実に彼の研究が成果を出し、製品化をすることで儲けが出ることを知っていたから研究のお金を出したのだ。

 そんな彼がどうして半グレみたいな連中とつるんでいるのか?


「そうは見えないけど?」

 初音の言うとおりだ。もしかしたら、気弱な彼が悪い連中にカモにされているか或いはパシリにでもされているのかとも思ったが、肩を組んで仲良さそうに話しているのを見ると、そうではないらしい。


「ちょっと香澄、何する気?」

 私が彼に近付こうとしているのを瞬時に察知した初音は、私の腕を掴んでそれを止める。

「だって私、彼に投資しているのに……」

 少なくないお金を渡しているのだ。それを夜遊びに使われているかもしれないなんて、許せない。

 たまたまかもしれない。研究の息抜きなのかもしれない。

 だけど、それは話してみなければわからない。


「今じゃなくてもいいでしょ? それに今行ってもほら……」

 確かにそうだ、初音が視線を送った先の彼らを見る。

 大声で、時々奇声を発しているような連中だ。そんな中に私が話をしに行ったところで相手にされないか、逆にトラブルになる可能性もある。

 それに今は大事な用事が控えている。

「そうね、後で彼に連絡してみることにするわ」

 そう言うと初音はホッとした表情をした。


 私自身が不測の事態を起こすところだったわね。



「お待たせしました」

 私たちの待ち人である山田教授が現れたのは、約束の時間ぴったりの七時だった。

「本日は貴重なお時間を割いていただきましてありがとうございます」

 私は名刺交換をする。

「すみませんねぇ、こんな朝早く。お若い方はまだ眠いのではないですか?」

 目尻の皺が、優しい人なのだと思わせるような笑顔だ。

「いえ、お忙しい中こうしてお会いできるだけで光栄です」

 おそらく今日一日予定がぎっしり詰まっているのだろう。

 そうでなければモーニングで初めましての人と会食なんてしないわよね、普通。

「あぁ、お腹空いたな。いえね、朝食前のジョギングが日課で今朝は気持ちよく走れたもので。早速いただきましょう」

 朝食前にジョギングですって?

 早朝に走る人がいることは知っているけれど、私にはちょっと信じられない。なにより、体に悪そうじゃない?

「はい、頂きます。それにしてもジョギングなんて凄いですね」

「この辺りですと皇居周りが気持ち良いですよね、何キロくらい走られたのですか?」

 私はただの感想しか言えなかったが、初音は具体的な質問をする。

「今朝は十キロくらいです。おや詳しいですね、ここら辺では有名なジョグコースなので上京した時には必ず走っていますよ」

「私は走りませんが朝活をルーティンにしています。ただのお散歩ですけど気持ち良いです、よくランナーさんとすれ違っていますので」

「そうですか、ウォーキングも体に良いですし気持ち良いでしょう」

「はい、体調も良くなった気がします」

「そういうものなの? 私、朝は弱くて……初音、今度私も誘ってよ」

「いいですね、お友達同士でお喋りしながらの朝活はきっと免疫力を上げますよ」

「あら、教授のお墨付きですね。嬉しい」

「教授は、週末のマラソン大会に出場されるのですよね? お天気も良さそうですし、良いタイムが期待出来ますね」

 いつの間に調べたのだろう、初音は教授の趣味や行動予定を知っているようだ。

 紗綾先生の計らいで急遽決まったこの会食を、初音に打診したのは数日前だったのにだ。

 初音がどれほど今日を楽しみにしていたのかを改めて知って驚いた。

「どうでしょう、最近はトレーニング不足なのでタイムは狙えるかどうか……でも楽しみです」

「応援しています。そうだ、香澄! 実際に応援に行かない?」

「えっ?」

「マラソン大会の応援よ、沿道からランナーさんに声をかけるのよ。一度やってみたかったの」

「そうねぇ、楽しそう!」

「それは嬉しいなぁ」

 山田教授は目を細めている。

 その後は、教授が今まで参加したマラソン大会の話とか、どんなトレーニングをしているのか、どんな食事をすれば筋肉がつくのかとかそんな話をして気付けば食後のコーヒーを飲んでいた。

 私にとっては未知の世界の話だったから新鮮で、ほぼ相槌を打っていただけなのにとても満足感があった。どうにか教授が研究しているIPS細胞や再生医療の話題に触れたいと思ってはいたけれど、タイミングを逃し続けていた。

「あぁ、もうこんな時間ですねぇ」

 教授が腕時計を見て、そろそろですねと言う。

「お話し出来たことに感謝いたします、本日はありがとうございました」

 名残惜しいが、私も最後の挨拶をする。

「いえ、そういえばIPS細胞について話さなかったのですが良かったのですか?」

 教授は思い出したようにそんなことを言う。

「それは、まぁ。お聞きしたいのは山々ですが、もうお時間もないですし」

「そうですよね、ごめんなさい自分の話ばかりで。よく怒られるのです」

 ポリポリと頬を掻く姿がなんだか可愛らしく思えてしまい、申し訳ないが笑ってしまった。

「いえいえ、大丈夫ですよ」

「では、近いうちに時間を作りますので、良かったらまた話をしましょう」

 思いがけず次回の約束をすることが出来、隣にいる初音も驚いて目をみはっている。

「それは、有り難いことです。是非、よろしくお願いします」



 今日の会食の顛末を電話で報告すると、紗綾先生もとても驚いていた。

「教授からまた会いたいと言われたの?」

「ええ」

「それは……凄いと思います。本当に多忙な方なので」

「そうですよねぇ」

「香澄さんが魅力的だったのかしらね」

 クスクスと笑い声が聞こえる。

「そんな、紗綾先生の紹介だったからかもしれませんよ」

「ほぉ、そういうことにしておいてくれるの? では次回も期待しているわね」

 紗綾先生は、上機嫌な声を出した。


To be continued



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